《脚色の限界》
先日各地で起きた大雨による影響で、樹齢1200年を超える巨大な御神木が倒れて道を塞ぎ、民家の一部が壊れたり出入口が塞がれたりしたと言うニュースを見た。
内容については「そうしたこともあるのか」と、特に不思議は感じなかった。
物理次元に起こる出来事に「有り得ない」や「あってはならない」ことはない。
そのニュースに関して「被害が最小限なのはご神徳」「きっと土地の人を守って倒れたのだ」的な感想を発見。
これも一種の、分かり易い不覚的発想だと頷いた。
覚めていない人は起きたことが歓迎出来ない時、
「せめても」と、
こうあって欲しい世界観に沿った解釈をする。
土地の人の安全を守って、代わりに倒れた。
もしかしたらそうかも知れない。だが、
そうしたことの真相は誰にも分からない。
分からないものを、「きっとそう言うこと」と好みに脚色した内容を支持し、心を安らかにしておきたいのが大抵の不覚者である。
例えば反対に、「人間が自然環境を顧みないことに怒り、ずっと恨んで来た巨木がわざと倒れた」などとはおそらく言わないだろう。
神の怒りや自然の警告、と言うざっくりしたお仕置き発想はあっても、決まった神木からのダイレクトなアタックは発想しない。
「だって神木だから。
守ってくれる存在だから。
土地の神と民は両想いだから」
そんな感じで木一本にはどうにかハートウォーミングなストーリーを添えることが出来るかも知れないが、この所様々な地域で
「神様どうなっちゃってんだよ」
と、覚めずに見たら開いた口が塞がらないだろう光景が沢山生まれている。
そこに心を痛めたり不安になったり脚色に走る前にすることがある。
神に慈しまれていると感じて
安んずる日々の中で、
人は神を慈しんで来ただろうか。
特に何もと言う方も、拝み、奉り、必要とあれば金も徳も積み、結構色々して来ましたぜ、と言う方も居られるだろう。
どの方にも、今一度お尋ねする。
守りやご利益関係なしに、神そのものを慈しんで来られただろうか。
守りや利益のない神など神ではないとするなら、これまで神に向かって拝んで来たのではなく、擦り寄って隙を見て毛程の神徳を引き抜いた気になって来ただけだ。
そんな甘えん坊を卒業し、神社の神や神木等も万物と変わらず慈しむことが必要。
慈愛とは親の様な強い方が子の様な弱い方に注ぐもので、慈しむなど神に対して失礼なのではと、序列マニアは思うかも知れない。
慈しみに、そうしたルールはない。
何処へ向けても構わないものである。
“神は守るもの。 人は守られるもの。”
この大変尤もらしく自然に見えて来た脚色も、限界を迎えているので意識上で解いておいて頂くことをお願いする。
神社の神にも、分神たる人型生命体にも、その他ありとあらゆるいのちにも、必要なのは脅威からの守りではなく天意からの愛と慈しみ、感謝と歓びなのだ。
脚色抜きに、観察しよう。
(2020/7/16)