《総を和する》
“アルファでありオメガ、最初で最後、こうした文言を幾ら唱えても、何も起こらない。
頭で知っただけで、体験を経ていないから。
そして、或るものを無視しているからだ。”
月曜記事でこの様に書いた。
本日はその「或るもの」について申し上げることにする。
腑に落ちるまで何度でも読み返して頂く為に、必要なことに絞って最小限として書く。
その前に一つ、きっと真理でしょうとする文言を唱え続けるに留まっていたのは、決して人々が怠け者だったからではないことをお伝えしておく。
「私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」と、黙示録なんて凄そうな文献に、凄いだろう主の言葉として書かれているのだ。
それも「私・は」と。
決して「私だけが」じゃないのだが、凄い存在を凄いぜと崇めて、少しでもその存在のお眼鏡にかなう様に努めるのが信者。
主が「私は」と言ったぞとなった時点で、瞬時に「それはあの御方のことであり、私どものことではない」と受け取ってしまう。
何者かを崇拝する時、この様な線引きが無数に発生し、線が絡めば絡む程、意識は制限を受け感覚は鈍る。
この分断による麻痺とは真逆の、あらゆるものを合わせる全員集合の働きが、「或るもの」である。
文言を幾ら唱えても、何も起こらない。
頭で知っただけで、体験を経ていないから。
そして、シグマを無視しているからだ。
シグマには幾つか形があるが、大文字でΣと示すものは総和、与えられた数達を総て足した和を意味する。
不覚時代に世に散らばり、時を経るごとに肥大したエゴ。
そのエゴに支えられる形で為された沢山の、目覚めていないからこそ出来た体験。
生み育てながら地に殖え、様々な欲求を充たし、競い合って互いの可能性を開き、殺し合って互いの可能性を潰し、俗なるものをたっぷりと頬張って、聖なるものも欲しいと手をのばす。
混乱、矛盾、際限のない飢え。
そうして不覚の世に満ちた一切合切を「和」として、意識の中心に集め合わせる時が既に来ている。
「すべて」には全て、凡て、総てとあるが、糸偏の「総」には、糸(意図)で括ってばらけさせたちっちゃなものが集合して“すべて”となる様子が良く出ている。
手離せない受け容れられない糸の切れ端が残っていると、当たり前に総和にならない。
総和が求められている、総和に出来ると言うことは、不覚とは当たり前な感じで延々続くものではなく、ある時点で終了する「与えられた一定の条件」と言うことでもある。
シグマの総和の前には「和して同ぜず」の和が、穏やか程度の意味合いで使われていることが明らかになる。
あらゆるものを飲み込む合一力が十全に発揮されて出された、十分な和が、総和である。
百分、千分と総を嵩増ししてだぶつかせる必要が本来はないのだと言うことは、「十分」の語に感じるスッキリとした満ち足りで良く分かる。
歴史を遡ると、シグマはΣを90度回転させたような形の「サン」と、意味を同じくして使われていたことがある。
エムに似ているサン。
二つの字は時を経る間にシグマの方に統一されたが、次第に使われなくなって行ったサンは、その過程でルーン文字のᛞ(ダガス)に似た形となった。
∞に重なるᛞの形。
それに、思わず口笛を吹いた。
サンの底流にあってシグマにも通じる本質は、無限の中心、∞の丁度真ん中の「・」。
この「・」への合一がなければ、根本の変化、変容はない。
人類は今、シグマの時代を生きている。
残ってないか、浚ってみよう。
(2020/8/27)