《素直と中立》
「中立な観察をお願い致します」
直接お目にかかる機会のある方々とのお話で、この様に申し上げることがある。
記事の中でこの様に書かせて頂くこともある。
申し上げたことは「分かりました」とお受け取り頂いているし、記事の形でお伝えした場合も、多くは同じ様にご了解頂いているだろう。
「分かりました」と。
不覚バリバリの人々は、おそらくはこの「中立な観察」でさえ「は?」となる。
「人生一度きり、我欲に傾いて何が悪い!」
と、鼻息荒くする傾きファンの人々に向けては、
「そりゃまぁ良いも悪いもないので、別に悪かぁない。そして別に良くもない」
ご自由に。
としか返しようがない。
まぁそもそもお目にかかる機会もない。
世の中には、理想の上で必要なので形だけ中立を謳う人々も居る。
自身を割と「冷静で知的かつ平和的」だと信じている人に多く見られる。
だが彼らの言っている中立を観察すると、どれも彼らの都合に合わせて傾いている。
自分自身、自分の身内、自分にとって好ましい方と、どこまで広げてもまとめれば“自分”に関係する方向に傾く。
「我が身を投げ打って」となる様な犠牲的興奮を好む者だと、一見自分自身に損な選択をしたりするが、自分の美学にとっては得であり、
自分の身<自分の美学
と、自分選手権であっちの自分よりこっちの自分が勝っただけの状態。
結局何らかの点で“自分”にとって、オイシイことに変わりない。
中立の「中」は、そうした自分の「中」に在るものではなく、個を超える虚空に通じる中心点の「中」である。
あらゆる角度を超えたこの一なる点に立すると、個の都合を超えた動きが出来る。
形だけ中立を言う人々の動きが、何だか妙にぎこちなかったり大して発展も繁栄もしないのはそれが中立じゃなく、微斜立だからである。
軸が傾くと、真っ直ぐ進まない。
微妙に斜めのまま中立を騙る者が人に「素直じゃないわね」と言ったって、それは言った側にとっての“直”からずれているだけである。
天地を貫く直と同じではない。
天地をちゃんと見たことがないのが不覚なので、どっちが天でどっちが地かは言い放題。
飽かず言い放たれる「誰の“直”を採用するか」で、不覚社会はずっと揉めている。
「中立な観察」をお願い申し上げた時に「は?」とならず、「分かりました」が出るなら、
中立を感じることが出来ているか、
少なくとも「中立」と言う感覚が存在すると認めることは出来ている。
感じることが出来る方々は、分かり易い我欲ファンの大きな傾きは勿論、如何にも真っ直ぐでありそうな人の微斜も、意識的に観察すれば気がつくことが出来る。
もう、微斜に付き合う時代でもないので、さっさと気づいて放っておくか相槌程度で深入りしないこと。
そして色んな斜めの変てこ度合いを中立に観察し、更なる気づきのヒントとして頂くことが本道となる。
実感はないが、「中立」と言う感覚が存在すると認めることは出来ていると言う方々は、日常で「この“直”に合わせてよ!」の主張が持ち込まれた時に、一旦「これは、直かな?」と観察してみることをお勧めする。
丁寧な観察は「直とは何か」感じる力を育てる。
斜める人々の堂々巡りが教えてくれることもあるのだ。
斜めのすべりを観察しよう。
(2021/1/21)