《節を分ける》
本日は節分。
明日から暦の上では春となるので、その前日に祝えない邪気は追い払らって片付けると言う、気配の大掃除的なイベントである。
「魔」を「滅」する、「魔」の「目」を潰すとして採用された「ま・め(豆)」を、魔の象徴として採用した鬼にぶつける豆まきの他に、
邪気が入って来ないように葉が硬く棘のある柊を飾ったり、
嫌な臭いの煙で撃退しようと、ちょっと焼いた鰯の頭もプラスしたり、
「魔を払う」ことを念じる動きが多い。
鬼をやっつける程の強いものを食べることによって力を取り込もうと言うのか、豆はまくのと共に、年の数、所によってはそれに1つ足して頂くことになっている。
鰯も頭は飾って身は頂くことにしたり、福を取り込む恵方巻きも美味しく頂く感じ。
「鰯の頭も信心から」とは、鰯の頭みたいな取るに足らないものでも、信ずる気持ちがあれば尊いものに見えることを言う。
対象が何であるか確認もしないで、ひたすら手を合わせるだけの信仰心の盲目的な面を、ちょっと馬鹿にする風に例えてある。
節分の鰯習慣が現代よりずっとメジャーだった頃にも、それを見て嗤った人が居たと言うことだろうか。
どっちにしたって、捕まえて、そこだけもいで、飾って、その様を眺めて「取るに足らないもの」扱いは、大分鰯の頭を軽んじている。
人の頭でそんなことをしたら、間違いなく大騒ぎである。
生首に恐怖を抱くのは、そこに断末魔の念を感じるからだろうが、魚の頭には一切の念が感じられない。
鮮魚売り場で彼らを眺めても、何の思い残しもない清々しい位の無があるばかり。
「下等生物には死を恐れ悲しむ複雑さがないから当然だ」
とする、感情ファンの人間達には想像もつかないことだろうが、魚生を全うしてつやつや光りながら並んで横たわる姿には美がある。
節分における人の動きを観察すると、豆でも鰯でも巻物でも、
嫌なものはなるべく惜しくない部分を使って追っ払うし、
いい感じで頂けるものは目一杯頂く。
と言う、ちゃっかり具合が確認出来る。
季節も、節目も、過ぎゆくものに感謝を尽くして送り、来たるものには喜びを以て迎えるのが本来。
節を分けることで、感謝と歓喜の機会が生じる。
節分の様にここまで「排除!」「防御!」色の強いイベントを楽しむには、相当こなれた“なんちゃって精神”が必要になる。
豆まいてみるけど、なんちゃって。
柊鰯飾ってみるけど、なんちゃって。
恵方向いてみるけど、なんちゃって。
「結局全体一つなのに何かから何かを防ぐんだって、おっかしいよね!」
と、不覚のちゃっかり加減から気づくことも含め、軽いノリでお楽しみになられると、節分もぐっと味わい深いものになる。
ノリは軽く、感謝は深く。
(2020/2/3)