《競われる幸》
この所、不覚社会は目に見えない恐怖の拡大にご執心となり、結果として変てこな騒動があちこちで起きている。
冷静に情報を受け取る余裕のある人々からすれば、
「一体何だってそんなことを?」
と、驚く様な現象も発生。
例えば、品薄になった特定商品を、使う分を超える量を求めて走り回ったり、行列せずに居られない状態。
人が集まる場所に出かけるのはよろしくないとか、不要不急の外出を避ける様にとかニュースで聞いていたが、それはもう良いのだろうか?
そんなことお構いなしに集合し列を作り、喧嘩したり苦情を言ったりじっと耐えてストレスを溜めていたりと、色々に忙しい様子。
そうしたぱっと見は変てこな動きにも、理由がある。
先日マスクについて書いた時にも触れたが、こうした商品は「いずれ使うから必要」と言うより、「それが買えるかどうか」が「大丈夫かどうか」の試金石みたいになっているのだ。
一体何の大丈夫か。
今回の騒動を、無事乗り切れるかどうか。
出来るだけ大した影響のない感じで。
だが、そうした「大丈夫」について思う様に確認出来ないのがこの度の騒ぎ。
台風みたいに進路予想をしたり中継で眺めたり出来ないし、目に見えないものがあちこちでじわじわ広がっている気になるのだろう。
不安が解消するのは、何だか脅威が次第に消えて行く様な気がし始めてついには全く大丈夫と言う終息が宣言された時。
で、差し当たってその宣言が出される気配もない。
不安に耐えられない人々は、「買えた!」と言う“幸運”があることを「だから私や私の家は大丈夫!」の安心に変換しようと試みる。
そんなお守りめいた感じで、使う分を超えたトイレットペーパーを積んでおかないと居られないなら、相当余裕がなくなっている。
人の内なる余裕がそれぞれどれ程のものかは、こうした有事の際に顕わになる。
元々、平時から不覚社会は幸を競っている。
容姿、家柄、知能、才能、職業、資産etc。
そうした差は、「今日も明日も明後日も、当たり前に同じ感じの日々が続く気がする」と言う予定調和が下敷きになっている時には、すまし顔に隠して競うことが出来る。
それが、テーブルクロス引きの様にシャッと予定調和が抜かれたことで急にガタピシ言い出した。
訳の分からない、見えない危機が迫りくる予感に始終怯えていると、平静を装っての幸せ競争は難しくなる。
内なる強震が続く中で、すましてマウントなど取れやしない。「どうかしてるぜ!」な場外乱闘も出て来ようと言うものだ。
当宮にお越しの極めてグッドセンスな皆様に、こんなことを申し上げるのは今更かも知れないが、本日は確認の意味も含めて敢えてお伝えする。
幸では、意識を落ち着けて中立にすることは出来ない。
状況に関係なく愛を発揮することが出来れば、
その時、意識は自然に落ち着いている。
愛しながら、
恐れられない。
愛と恐れは両立しない。
人はよく、特定の人物に感じる好意や恋慕だったり、恐れを隠して行う犠牲的行動等を「愛」と呼んだりするが、不覚全盛時代に散々見慣れたことでクセが付いているとしても、そろそろ卒業して頂きたい。
陽光や慈雨の様に、範囲指定せずに世界を愛して大丈夫である。
と言うか、「こっからここまで!」が取れて初めて、愛とは何か分かるのだ。
幸運には「君に決めた!」の範囲指定が欠かせない。
無限なる愛の発揮に必要なのは、幸運ではなく母性。
内なる虚空の全母と同一である存在として、今、この瞬間に何が出来るのか。
意識に浮かんだことを、何であれ愛でなさってみられることをお願いする。
世界を覆うコロナ圧は中々なものなので、この騒動の時期に思いがけなく母性を開花させる人々が出て来るだろう。
それも、進化変容の流れが加速する重要な動きだと感じている。
進化変容について知る機会がなくノーヒント状態だと、「そういやお母さんぽい何かあったかい感じ」とか、「他人でも人以外でも愛おしい謎の気持ち」とか、ハテナを伴いながらそれが何なのか分からないまま開花する。
個母と全母の違いを知っておられる皆様。
腑に落とすまで行かなくとも、知っていることは推進力となる。
ノーヒントの人々より更にきめ細かな理解を深め、気づきや行動と言う美しい天意からの愛の花を咲かせて頂きたい。
幸不幸なく春は来る。
(2020/3/9)