《空を召す》
本日は昭和の日。
二年前の同じく昭和の日に、《和を成す》と言う記事を書いた。
そこでは書かなかった新たな発見があったので、本日記事にてご報告申し上げることとする。
字を見て明らかな様に、天照の照から、下のポチポチを取ると昭和の昭になる。
明るくなる、明らかになることを示す「日」に、神や祖霊を迎える様子を漢字にした「召」を合わせたのが「昭」。
意味をまとめてみると、昭とは「神・祖霊を迎えて明るい。あきらかである」ことになる。
そんな「有難くて明るいぜ」な字に「それにより平和だぜ」とした昭和。
自ら天照らすことなどさっぱり意識にない不覚状態で、人が考え得る最高の「いい感じ」だったのではないだろうか。
そのいい感じな状態であることを祈念した元号の割り振られた時代は、実際明るいばかりではなかったし、「神も仏もあるもんか」となる危機的状況も通った。
激動の昭和、とか言ったりもする。
もう和は一旦置いてでも、とにかく平穏が成立すればと祈念したのが平成だろうか。
あの時代の不覚社会で平らかになったもの、あったろうか。
令和がやってくる前の《和を成す》では、「和・成・和。じゃ、次何成?永成?」と一瞬首を傾げる場面もあったが、既出の元号でこの流れにチョイ似の永和がある。
だが、永続的な和合が永久不滅で未来永劫なんてことにはなっていない。
と言うか1375から1379と、オリンピックがタイミング次第でギリ2回入るか入らないか位の短期滞在。
更に前の天永と永久と元永なんて、タイムセールみたいに三つ合わせても十年である。
彗星の出現や、天変地異、疫疾などによる改元でこうなったそうで、緊急事態になると永への求めが強くなる人間心理が表れている。
どれを見ても「人が元号に祈念した通りに時代が彩色されることはない」ことは、明らか。
平成じゃなくなって間もなく、日本どころか世界規模で不穏な気配が広がったので、
「そう言えば平成はまだ平穏だったかも」
と懐かしく感じる人々も居るかも知れない。
だが、平成時代には昭和後期の盛り上がりを懐かしみ、国が物心両面で貧しくなったことを嘆く声も多かった。
平穏とジリ貧は違う。
昭に話を戻す。
昭の字について、「“日”と表される愛の光を、意識が物理次元に呼ぶと言う“召す”を行う」と、以前に書いた。
明るくなることについては、照も昭も同じだが、ポチポチの有無を観察していて気づいた。
昭とはポチポチなし、つまり点滅なしの明るさを表し、それは有となって物理次元に出る前の、意識の明るさ。
目が覚めた状態を表しているのじゃないか。
中心に特定の神や祖霊ではなく、日の元である虚空を召し、意識の夜明けを迎える。
光を招いて明るさを貰う発想ではなく、内側に虚空を召して、明けて和すことを示しているなら、昭和とは凄いメッセージである。
このメッセージ通りの進みであれば、今の今は、目を覚ました者がそこかしこに居ても何の不思議もない。
だが、エゴを手離せない分割意識達が大分ゴネて、前に書いた 「和そうとしつつ、天照らさなかった時代」となった。
この所、昭和から平成期にかけて活動した人物で、母性の重要さをここまで理解していたとはと驚く端末を発見することが続いている。
ここまで分かっていたのに何故と不思議だったが、すぐ納得した。
彼らの思考や行動は「善かれ」に傾いていたからである。
善かれは、悪しとしたものを照らさない。
そして、思考することに酔うとその善かれが肥大する。
やはり昭和も平成も、虚空からの深い呼びかけに受け取る側の傾きを合わせることで、チグハグな不覚体験をたっぷり味わえる時代を作りたかったのかも知れない。
浜辺で貝殻を拾う様に、彼らの遺した母性への探究の断片を集めて、今の今歩み行く人々の道を照らす灯りとする役割も、引き受けることとなった。
貝殻でランプを作るみたいなものである。どこでお目にかけるか、ここでお目にかけるかもさっぱり分からないが、クラフト感覚でコツコツ楽しんでみることにする。
ゴネもずっとは続けられないし、不覚のノリも随分と煮詰まり、にっちもさっちも行かなくなっている。
にっちもさっちも感に途方に暮れるのも自由だが、時代に急かされてその様になっている訳ではない。
虚空は何も急かさないし、新世界も何も急かさない。
覚めた者も何も急かさないし、遅いと嘆いたりもしない。
むしろ、嘆いて欲しがっているのは覚めぬ側ではないだろうか。
嘆いて、惜しんで、仕方ないなと、このまま不覚に付き合って欲しい。
だとしてもそれらのどれについても、虚空も、新世界も、覚者も行わない。
急かさないし、救い上げもしない。
元号の形でメッセージが降りて、時代に意味深い名付けが起きても、それはその様にしてあげると言う保証ではない。
そもそも虚空も、覚めた者も、いつになったらと「いつ」で「割る」ことをしない。
只、分かれ行く覚と不覚を、静かに観察している。
この状態が当たり前になって初めて、偽りなく昭かに和し、照らし照らされることが出来るのだ。
召して照らす、天意からの愛。
(2021/4/29)