《知らない楽しみ》
ステイホームがまだまだ言われるこの頃。
記事に書かせて頂いたこともあるが、成長を観察する野菜や花の数をこの機会に増やし、水を撒いたりちょっと摘ませて貰ったりして、日々楽しんでいる。
咲いた花を飾ったり、野菜を食べたりしながら気がついた。
こうして様々な“栄養”を受け取っているし、彼らの育ち行く姿から学ぶことも多い。
こちらがあちらを育てているだけでなく、
あちらもこちらを育てているじゃないか。
互いに育てあっていることに、しみじみと感謝した。
植物は自然の流れに沿って育ち、人の都合による細かな指図に従ったりはしない。
人が買って来て植えたとしても、
「いついつまでに花や実を頼む」
と、指示は出せない。
そこが素晴らしい。
宮司には特に何の都合もないので、指示なしでその成長を眺めている。
植えるだけでなく、もっと前の状態から観てみようと、種蒔きもしてみた。
ちっちゃく区切られた地の中で、どの様に自然の産物が芽を出すのかと茶色い土があるばかりの状態を、楽しく眺めた。
楽しいのには、更に理由がある。
何が育つか、知らないからである。
「情報を殆ど取らず、詳しいことは知らない」と言った方がいいか。
種や苗や樹を買い求める時、人は大体「これこれこう言うものを家に置こう」とか「育てよう」と意識してから、手に入れる。
大体どの商品にも「これは○○だよ」の現在の姿や「これは○○になるよ」の成長した姿が、外袋にプリントされていたり、プリントしたものが脇に刺さっていたりする。
これがあるから気になるメンバーを集めて、人それぞれに好みのお庭作りが出来る。
そんな中に、10種類程の花の種をざっくりと混ぜたと言う、ゆるい感じの袋を発見。
閃いて、プリントされた花の写真をろくに見ないで購入した。
肥料や微生物が混ざってふかふかになった土を入れた鉢を幾つも作り、そこに撒くことにした。
袋を開けると、細長いのから丸いのから、芥子粒みたいに小さなのから、わんさか居る。
撒き時が合っていることだけ一応見たが、それしか分からない。
「ええい、
ままよ!」
と種を全部撒いた。
「ええい、ままよ!」と言うのは、不覚時代に自販機で飲み物を買う時に、肘から手首まで使って一列全部のボタンを押して、出て来たものを飲むと言う謎の楽しみがあった頃から、よく出て来る。
風の吹くまま、気の向くままの「まま」、そのまま、ありのままの「まま」であり、我がない現在では、どんなに「まま」に任せても我がままになりようがない。
おかあさんのことを「ママ」の音で表せるのも、そう言えば面白いものである。
この種蒔きの「何が出て来るか知らない」「いつ出て来るか分からない」と言うことが、ここまで楽しさを生み出すとは、実際にやってみて少々驚いている。
朝に夕に、知ってるメンバーに挨拶する感じで花や野菜の鉢に水を撒く時、それと一緒に何もない様な土だけの鉢にも水を撒いた。
暫くはふかふかの茶色い寝床に種が埋まって静かにしている様子を楽しく眺めていたら、ある時、一つの鉢にひょっこりと小さな芽が現れ、
それからまた少し離れた鉢にひょっこり。
初めはそんな感じでゆっくりペースだったのが、数日後から一気に密になった。
種が色々だった様に、芽も色々で、葉も色々。ちっちゃな箒を逆さにしたみたいな変わったのも居る。
これは一体何になるのか。
じっと見つめていてふと、このところ社会では不安を解消したい思いから「確かな証」を求める動きが加速し、こうした「分からないこと」「知らないこと」が祝われ難くなっていることに気づいた。
「知りたい」「分かりたい」あまりに、知らないと言うことや分からないと言うことを祝わず感謝もせず、ないがしろにすると感覚が鈍麻する。
知らないから、知ることが出来るし、
分からないから、分かることが出来るのだ。
何になるのか分からない存在をそのままに眺めるのは、とても楽しい。
まるで、様々に成長する集団を何組か受け持っているみたいである。
と言っても、せーので教えることなど何もなく気楽に水を撒き、時たま肥料を運ぶのみなので教員と言うより用務員かも知れない。
用を務めるって素晴らしいことじゃないかと、ありがたく観察を続けている。
今を祝う、未知の歓び。
(2020/5/18)