《略せないもの》
本日は「戦略」を超える必要について書かせて頂く。
そこでまずは当宮の滅多に開かない左側から借りて来て、「略」の字についてご説明申し上げることにする。
略の向かって右側にある「各」は人が「石に躓いた姿」だとか、「神がお祝いの器に舞い降りて来て止まった姿」だとか、色々言われる。
共通するのは、
動いていたものが止まる
と言う点。
略の字は田に表される所有区分を、各のつっかえさせて止める力で分ける、「田畑を測量する様子」を示す字。
単なる計測の「はかる」が測って止めておきたい、所有を確定し広げたいと言う欲望から、謀にまで意味が広がった。
知略を巡らした策略で、侵略をする。
出来るだけ効率よく侵略をする為に、不要なプロセスは省略する。
省いて・略する。
この繰り返しが、略することにハマった人々が鈍感になる理由である。
好ましい部分以外は省いて略そうとすると、人からのアドバイスや提案でも上からのメッセージでも丸ごとが聴けなくなり、伝わり方が浅くなる。
理解が浅いから、気づきは起きないし、実行にも移せない。
気力や体力として実感する生命力にまだ余裕があった頃は、それをつぎ込んで戦略で目覚めを攻略しようとして来た人々。
彼らの中に、悪意で見えざるものを騙そうとした訳ではなく只単に、愛が何か分からなかっただけの人が居る。
分からなかったと言うか、違うものを愛だとして扱って来た。
執着である。
一番最初に作った冊子で、執着・発情・名誉を混ぜたものが人間の言う“愛”で、こちらもそれが愛だと勘違いして近所迷惑にさえ感じていたが、愛の本質についてもっと深いことが分かったと書いたことがある。
不覚時代から覚めて暫くまでは、‟これ”もそんな風に愛の表層しか見ていなかった。
只今も不覚バリバリの方なら、やはりそうであっても不思議はない。
「身勝手な人」「自己愛が強い人」と言う、変な表現がある。
身は本来御神体であり、分割意識の駄々に付き合ってでなければ勝手な真似などしないし、したいと思ってもいない。
愛は、自己にだけ押し込められるものではない、全体に満ちるもの。
自己愛が強いと言う状態は、実際には愛と無関係の自己執着が強い状態。
自分と言う概念に粘着し、主導権を取って具現化を執り行いたいと欲する者は、戦略に走る。
そうして生命力をひたすら戦略的自己実現に費やし続けても、虚空の天意で授けられた生命力は、愛の発揮でしか増えない。
ビジネス風の戦略的投資では、エネルギーは減るばかりなのだ。
じわじわ減り、いよいよ元手がなくなって来て「自分と言う会社が倒産するかも」と恐怖がわいた途端、戦略家は一気に混乱に陥る。
これまでの投資は失敗だったのではないか。
間違っていないなら投じた分、もっとリターンがあるはずではないか。
天からの資金援助がなければ、回らないのではないか。
不渡りを出し、不覚から覚へ渡ることが出来ないのではないか。
こんな恐れが駆け巡り、大混乱。手が付けられない。
不覚は意識にかかっているカバーであり、それが開いて覚となる。
どっかからどっかへ、上手いこと渡り歩く訳ではない。
渡るのは世間であり、辛く厳しく苛める‟鬼”の様な人ばかりいると言われている。
覚から観ると辛くあたる鬼はいない。
鬼は単なる「人知を超えた得体の知れない力」である。
怖い鬼も居ないし、敵も居ない。
戦略も持ちようがない。
目覚めによって感じた細かなことは、日に日に忘れて行っている。
だが、「我こそは目覚めて優れたい」「自分だけは目覚めて助かりたい」として、目を覚ました訳でないこと位は覚えている。
そんな要求ではなく、
「とにかく、本当のことを知りたかった」
それが損だとか得だとかは、意識になかった。
そして、
「とにかく、これをしなければ人類全体が行き詰まるし、
行き詰まる為に人類は生まれて来たのではない」
とも、分かっていた。
だから、覚悟出来たのだと感じている。
個としてどうなるとか、どうでも良かった。
「覚悟」と口で言うのは簡単だし、手形の乱発みたいに結構溢れ返っている。
しかし真の覚悟は愛でしか、し得ない。
ここを省くことは出来ない。
戦略だったと認め、執着だったと認め、愛とは何なのかを真に知ると決めることでしか、八方塞がりの苦しみは終わらない。
今はまだ、生命力に余裕があると言う方も、遅かれ早かれ大混乱の時はやって来る。
誰も、目覚めを上手く攻略など出来ない。
愛程に、略せないものはないのである。
全ての基であるのだから。
(2019/9/30)
特に出て来なかったので9月はふろくをお休みします。
年末に二つ出る様です。