《生きる歓び》
夏以降、ひょんなことからある種の菌達に興味が湧いていた。
菌全体に関心はあるが、生活の中でこちらから意識的に近付ける機会のあるものは限られている。
と言う訳で、そこに絞って注力することにした。
視覚的な観察でも良かったが折角近付けることだしと、体内に取り入れた実感によって観察をしてみた。
「ある種の菌」とは世の中で乳酸菌と呼ばれているもの達や、ビフィズス菌と呼ばれているもの達のことである。
自らを空間存在として実感しながら暮らす中で、光の点滅が原子や分子のかたちをつくり、又それらが集まって更に大きなかたちを作り…と、表現される形が幾つもの段階を持っていることの、途方もなさと美しさに驚いていた。
変な例えだが、人間が沢山集まって組体操で人間の形を作り、その集合人間達が更に集まって人間の…が繰り返される感じの途方もなさ。
しかも、出来るのは例えのような人間の形のみではなく、肉眼で見ることが出来るかたちから、身体を構成する目には見えないかたちから、実に様々。
組体操より、スイミーの方が合っているかも知れない。
そうした沢山の集合の重なり合いの中で、それぞれが「生きている」。
「凄いぜ!」
と驚き、嬉しくなったのと同時に、肉眼で見れない程ちっちゃな、直接言葉を交わすことの出来ないもの達について、知りたくなった。
数の多い方が声も大きく、“声”の大きい方が彼らが「何か言っているか」、だとしたら「何を言っているか」聴き易いだろう。
それに、「新メンバー」が続々入ることで、御神体と言うオーケストラに何か変化は起きるのだろうか。
と言う訳で日々、じゃんじゃん彼らを迎えてみた。
彼らを沢山乗せてお届けしますよと言う商品には、大抵「健康にする」「強くする」と、書いてある。
なので売り場に流れる、健康に対するプレッシャーを含んだ気配も中々である。
大方の人は、健康を求め不健康を嫌う。
「康は幸って、有名な概念だもんな」と、しみじみした。
康も幸で構やしないが、「康こそ幸、不康は不幸」と意識が自らと御神体を脅迫すれば、それは当然に苦しい。
その苦しみは、お求めの健康にどう作用するだろうか。
「生きて腸まで届く!」をアピールする商品があると言うことは、運ばれる新メンバーは既にお亡くなりの場合も多々ある訳で、何か言うか、聴けるかどうかはさっぱり分からなかったが試し続けた。
皮膚はやたらスベスベになり、「随分触ってないが、赤ん坊ってこんなだった気がする」
と肌をつまんだり押したりして楽しんだが、声らしい声は特に感じなかった。
が、ある日ふと気がついた。
声を、メッセージとして聴こうとはしていなかったか。
それ抜きで感じて見たら、彼らが発しているものが明確に届いた。
余りにも自然で、宮司を名乗る“これ”も元々感じていたものだったので気づきにくかった。それは、
生きる歓び
菌達はあーせいとかこーせいとか、頼んだとしても言ってはくれない。
こうすべきがない存在達である。
只、生き、それそのものを楽しみ歓んでいる。
他に余計な思い描きがない分、この生きる歓びは気がついてみるとビックリする位豊かで、そして大きい。
ちっちゃな存在達から、こんなにも大きな歓びが伝わるものかと、感心した。
その後、たまたま読んだ本に、腸内細菌からの“呼びかけ”は脳からのものを超えて人に大きく作用することについて書いてあり、成る程と唸った。
人間が善玉とか悪玉とか振り分けて、善と見ている彼らは単純に、「居合わせた大きな集合体を含めて、自らを繁栄させて行くこと」を楽しむ菌達。
意識の憂鬱状態を変化させたりするらしいと言うのにも、そりゃそうだろうとなった。
彼らの住む腸内フローラは、イメージ画像などで見ると確かに花畑とも言えるだろうがまるで花の海。
直接見には行けないが、その美しさと歓びに満ちた点滅表現に拍手を送った。
見えずとも、共に在ることは素晴らしい。
豊饒の海から響く歓び。
(2020/10/15)