《特別じゃない》
工作や作文をひと段落させたある日の夕方、急に外が暗くなり唸る様な音が聞こえた後、激しい雷鳴に変わった。
続いて雨が降り出した。
最初のバラバラと降る音も派手だったが、そこからどんどん強さを増して来る。
すぐに、室内で雨音が一番大きく聴けそうな場所に寝ころんだ。
音が意識と御神体の両方を通って、もし何か固まっている箇所があるなら砕いて流して行くと気がついたからである。
雨の音は勢い良く通り過ぎていく。
それを聴くに任せていたら今度は部屋が震え出した。
携帯の振動みたいにささやかな地震。
揺らして流してとは、丁寧な仕事だと感心した。
特に凝り固まった所もなかったようで只面白く、全体丸洗いされた感じでスッキリした。
雷雨と地震のセットは、世の中的に見たら「天変地異」とかお叱り系な感じで取られそうだが、一連の流れからはそんなお小言の気配は全くしなかった。
只必要な仕事を、淡々としている。
その日の空模様も、それをそう感じる宮司も、特別ではない。
翌朝、外に出てここしばらく観察し続けているトマトとウリの黄色い花達の前に屈んだら、横にパプリカの白い花とナスの紫の花も咲いていた。
昨日の雨が露になって輝く花達には一輪一輪に、冴え冴えとした晴れやかな美しさがあった。
雷雨が咲かせた花と言う訳ではないが、雷雨も一役買っていることは確かである。
激しく鳴り響き吹き荒れるものが、小さく静かに美しいものの誕生を促すこともある。
初めましてと花を眺めながら、
「咲いたことは拍手で祝いたいが、ずっと見て来た黄色い花より、白や紫が特別美しいってことないな」
と感じた。
加えて言えばそれらの花がつく前の、葉や蕾や萼、茎や根もそれぞれ美しい。
勿論、空間の中でそれらが存在していない部分も。
これはずっと分かり続けて来たことで、ある意味確認とも言える理解だが、繰り返しではなく更なる気づきと、より深い実感がある。
覚めたら終わりではなく、そこから精度が上がり続けるからこそ、観察者として存在する意味があるのだ。
変容にも勿論その先がある。
今、世の中は特別なことで遊び難くなっている。
旅行等で、日常より映えるとされる特別な場所に出かけることもし難いし、
特別とされる人達をステージにあげて、それを観る為に大勢が集うこともし難い。
その状況に対して退屈だと不満をつのらせるか、「特別さを求めない集中」に力を注ぐかで、歩みは大きく分かれて来る。
あれがそれに比べて特別じゃない。
それもこれに比べて特別じゃない。
どれもどれと比べても特別じゃない。
特に別れたるものなど、別にない。
この「エゴには我慢ならないだろうシンプルな事実」を、腑に落とさないと進めない先がある。
普く通じる、普通の門をくぐり外へ出て、ようやくこれまで過ごして来た場所が不覚社会と言う小さなテーマパークだったことを知るのだ。
出づる先に、爽やかな風。
(2020/6/8)