《物見遊山?》

 

先日、直接お目にかかる機会のある皆様と、新年お祝いするひと時をご一緒した。

 


会では様々なお尋ねがあったのでお答え申し上げ、又、ご参加の方々の間で交わされる体験談気づきアドバイスのやり取りも興味深く伺った。

多くの方が「今になることを知り、どの位んでいるかを確かめること」を求めてがれていた。

情報を受け取りに来る、ご挨拶に来る、進化する人を見に来る、宮司を観に来る。

お越しになられた目的は色々あり、一つではなく混ざり合っているのを感じた。

それぞれに、物理次元の進化発展の一頁である。面白かった。

 


豊かな時を過ごさせて頂いた訳だが、その場にあって周囲の活発な流れをほぼ眺めるのみと言う方も居られた。

その姿から気づき切っ掛けを頂いたので、本日記事にてお知らせ申し上げる。

例えば天意からの愛で、に出掛けたとする。

その土地に“光”を感じる(=じる)ことが出来ていれば、歓びが溢れる。
 
歓びが溢れたことには感謝が湧き、更にそれは自然と愛からの行動に結びつく。

 

思わず走り出しちゃう感じ。

感じた(=観じた)と、同じを自ら内側から放ちを表す行いを成す

この愛の行動がない行脚は、

ではなく物見遊山

物見遊山とは、見物して遊び歩くこと。

気晴らしに色々なところに遊びに出掛けることである。

 


調べてみたら「遊山」の読みに二つあり、「ゆうざん」と読む場合は、山野に遊ぶことという意味になり、「ゆさん」と読む場合は、行楽に出掛けることを言う、と書いてあった。

「遊び」と言う概念に関しても色々誤解があるが、物見遊山は、不覚社会でお馴染みの「お遊び」的な、“戯れ”の意味が濃いと感じる。

祈りや学び等のスピリチュアルに関することにしても同じで、どこに行っても、誰に習っても、自他を超える愛の発揮としての行動に実を結ばないなら、それは戯れの行楽なのだ。

行楽は、楽である。


講座に行って、その場に居れば出来る

旅行に行って、その場に居れば出来る
 
只、何となく居て出来るのは、その場その場の気晴し位である。

目覚めは、席を買うものではない。

 


物見遊山の気づきを下さった方から以前、覚醒することに「命をかける」宣言を頂いたことがある。

只今は、「決死の覚悟」で学ばれておられると言う。

では、何故自他を超えた愛の発揮行動として起きないのだろうか。

 

何故、行いがことごとく「目覚めたい自ら」を助けるものに留まっているのか。 

 

については以前《すべて命》と言う記事で書かせて頂いた。

それで充分書いた気がしていたが、命をかける「死しても構わぬ」程度の理解で留め置くのは、停滞に他ならない。

 


大体、死が「個としての形の喪失」で留め置かれている。そこからもう停滞堂々巡りである。

それは、その方お一人に限らない。
世の多くの人に未だ見られる停滞と言える。

いのちとは何ぞやの
腑に落ちがないなら、
重ねて申し上げるのみ。

 


本年の母神祭のテーマは『命』と決まった。

本質を知る上で、大きなヒントをその生き様で示した方々にちなんで、12月の開催とする。

年末にはならない。祭の知らせ「よっしゃ」となった方々は月の前半を空けておかれることをお勧めする。
 
テーマをとすることをから示され承知した時に、晴れやかな清々しさが満ちた。

 


着々と腑に落として進化をしている方だけが、重要な切っ掛けを下さる訳ではない。

心底より感謝申し上げる。

命冥加を狙った物見遊山で終わらずに、

本道を行き進化する時、

全母性は必ず開く。

それを前もってお祝い申し上げておく。

 

進化程、素敵な旅もない。

(2020/1/14)