《点と線》
「点と点が線と繋がり謎が解ける」と言う話もあるが、本日記事にて申し上げる点と線は、そうした協力し合う点線とは違う。
今回の「点と線」を他の何かで言い換えるなら、「愛と怖れ」が近いかも知れない。
自然や社会の変化により、人類の「慣れ親しんだノリで生きて行かれるだろう安心」が吹き飛びつつある昨今。
生き物としてお馴染みの習性である、
「とにかく我が身は守らねば」
「うちの群れ(家族)は守らねば」
「うちの縄張り(地元)は守らねば」
が、あちこちで強くなっているのを感じて、見事なものだと感心した。
それらに「仕事は守らねば」「体面は守らねば」「収入は守らねば」等が加わって、ややこしさを増している。
「守らねば」と言う、エゴには当然と感じられるだろう欲求は、守る対象とそれ以外との間に線を引く。
時には良かれで引く。
A国とB国。
首都と地方。
都会と田舎。
昼の街と夜の街。
若者と老人。
きりがない。
その辺のきりのなさについては放っておくしかないが感心したのは、
そうした線引きを強化し、つまり自他の別を強め続ける人々と、
「そうではない在り方・生き方」を深めていく人々とに、
どんどん分かれて行っていると
改めて気がついたからである。
「そうではない」方の人々には、世界を「点」の集合として認識する感覚がある。
はっきりした自覚がなくとも、近くの人々が糾弾し、嫌悪し、皮肉り、苦境に在ればほくそ笑む様な“遠く”にも、「しかし、向こうも又“いのち”だ」と理解し、線を引くことに不自然さを感じる人々。
これは、教義や信念や美学では成せない、根本の理解である。
個を超えた、線引きによる制約に縛られない、意識存在としての理解だ。
真の理解には実感が伴う。
彼らは理解と共に実感する。
全てが途切れのない、点滅するいのちの流動であることを。
その理解と実感は、性別を超えた全母性が起こしている。
線引きへの疑問は彼らの内に湧くだけで、言語化やその他の表明がされることはまずないだろう。
しかし世界を無数の点滅だと感じることが出来る人々は、疑問の次に「この変化の時期に今出来る精一杯のことは何だろう」と問いが湧く。
そして、それぞれ行動して行く。
行動により愛が深まり、理解も更に深まる。
その深まりは、彼らを全なる覚に連れ行くだろう。
「いやっほう!全く嬉しくなっちゃうな!!」
と、盛り上がる気づきに沸いた。
線引きで盛り上がりたい人々に向けては、算盤を弾き情に訴えかける「迷える子羊用の担当者」みたいな存在が幾らでも居るだろう。
特に関心がない。
線引きを線引きする訳ではないし、誰のことも判別する気はないが、線引き行為とそれをする人々に構う気もない。
こちらで意識を向けているのは、周囲が混乱の渦にあろうと点滅の感覚を燈火に、新世界に生まれ出る人々だからである。
宮司を名乗る“これ”に分かっていて、彼らにとって必要なことは全て伝える。
その時に相応しい様に、知る内容や伝え方、意識や御神体を、歓びと共に磨き続けておく。
見事なまでに、着々。
(2020/8/10)