(もぐ)る力》

 

深まる秋と冬の訪れが手を取る11月

 

まだ幾分暖かく行事や祭の多い10月と、年の瀬を迎え賑やかな12月の間に挟まれて、別名の「霜月」の様に雪になる程ではない感じで控えめで目立たない

 

 

だが、観察してみるととても味わい深い期間である。

 

そんな11月には霜月以外にも面白い別名がある。

 

今月はその中の二つにちなんだふろくをお届けすることにした。

 

一つ目は本日記事にて書かせて頂く竜潜月(りゅうせんづき)

 

竜潜(りょうせん又はりゅうせん)とは、

 

 

竜が水中に(ひそ)んでいる姿に例えて、英雄・賢人が世に出ないで隠れていること。

 

また、天子がいまだ位に就かないでいること。また、その時期や、その人。

 

を意味すると言う。

 

「成る程なぁ」

 

竜潜月で検索して、幾つか目に「中二病の心をくすぐるみたいな触れ込みでこの呼び方について書かれている記事が出ていた。

 

どう言う状況になればこんなことに? 

 

 

まだ世に出ていないだけ、まだ知られていないだけで、自分には天子みたいな特別な何かがある。

 

生まれとか天命がそうでなかったとしても、出てみりゃ英雄だったり賢人だったり、

 

とにかく何かしらの良いもんがある。

 

そう思っておきたい人々にはとても心地よい響きがあるのかも知れない。

 

時だけ経つと懐かしのこれに。

 

今居る場所に潜んで伏しておけば、何となく「世が出て来いと言うの待ち」として様になる形に見える”と言う感性にはちょっと驚く。

 

後、中二病と言う言葉が未だ使われているのにもちょっと驚く。

 

まあ、どちらにしてもちょっとであり、水面を指で弾いた位にあっちゅう間にその驚きも消える

 

水を差すようだが、元々、天翔けてきっちり陽の力を発揮する仕事をして来た竜と言う存在が、再び春に飛び出すまでに今度は陰の力を求めて、一旦水の中に潜るのだ。

 

 

それは季節の巡りにも通じるし、にも通じる。

 

出たことがない貝が

 

「俺、出たら竜じゃね?」

 

と夢見るのとはどっからどう見ても違うのだが、竜側から別にクレームも出ないので自由に言えるのだろう。

 

勿論、どんだけ言っても竜は夢の保証したりはしない

 

竜(龍)の本質については既に冊子で書いているので、お持ちの方は気が向かれたらそちらをしみじみと読み返してみて頂きたい。

 

古来中国で「竜は春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜む」と伝えられて来たことから日本でも「龍淵に潜む」は秋の季語となっている。

 

 

潜む日と言われているのが秋分なので、「えいや!」と潜ってから、丁度潜んでる状態に落ち着いた頃が今時分と言うイメージなのだろうか。

 

そうして春分に又、「えいや!」と出て来ると。

 

表に感じる動きだけ追えば、そんな見え方になる。

 

竜潜月を観察していて感じたのは、竜が(ひそ)む」のではなく(もぐ)る」月であると言うこと。

 

竜は全然動きを止めていない。

 

 

動的存在であり、見えざる所に場を移しただけでそれは変わらない。

 

光合成が冬も止まらないのと同じに。

 

樹液や血液の流れが冬も止まらないのと同じに。

 

呼吸が寝ている間も止まらないのと同じに。

 

 

奥に奥に奥に、力を満たして動き続けている。

 

そうして増えた力を春に開放する。

 

そこには今の今感じている流動する歓びがあり、

「いつの日にか」の願いは特にないのだ。

 

惜しみなく潜り満たそう。

 

(2020/11/9)

 

11月のふろく その1《潜り満たすメモ》

 

 

 

潜り動く竜のメモをこしらえました。

 

左上に浮かんでいる金色の瑞雲の中に、今の今から春分までの間に「深めて力を満たすテーマ」を一つ決めてお書き下さい。

 

そのテーマに沿って出来映えなど気にせず、只、この静かな期間に歓びをもってひたすら深めることをお勧めします。

 

変化が中々実感出来ない時には、木々をご覧下さい。

 

変わらない様に見えて、僅かずつ変わっています。

 

殊に桜は、分かり易い気がします。

 

 

黒や灰の混ざった様な濃茶色の幹や枝から少しずつ新しい芽が出て蕾が膨らみ花になる。

 

花の色を「桜色」と人は呼びますが、桜達から彼らの幹や枝の濃茶色が淡いピンクの添え物だと思っていると、全く感じません。

 

どちらにも歓びがあり、中立に観察するとそれぞれの美しさに目を見張ります。

 

一つことを丁寧に深め続けて行くと、中立に至り易くなり、美も感じ易くなります。

 

歓びと共に、竜潜月を味わわれて下さい。