《溶ける粉飾》
今年も来年も展開を辛くする最も大きなポイントは「頑なさ」であると、前回記事に書いた。
人類の歴史が変容の時代に入ったことをご理解下さるグッドセンスな皆様は、この件についても「そうか、頑なさか!」と、ピンと来られているのではないだろうか。
そうした方々の居る一方で、不覚社会には頑なさを手放すことなど出来ないしやりたいとも思わないと耳を塞ぎ歯を食い縛り、「頑なこそ、我が人生!」とする人々も居る。
そうした頑なさに縋る人々に付き合っていると、覚に意識を向けようとしても知らぬ間に逸れて、彼らと似た様な段階をぐるぐる回るばかりとなる。
付き合う必要は全くない。
付き合わないことは、見捨てることではない。
そもそもあらゆるものが点滅し流動している全体一つの物理次元では、誰かが誰かを見捨てることなど出来はしないのだ。
誰かが誰かの言い分に付き合わないことを、
それが気にくわない方が「見捨てられた」と言うだけである。
そう言えば、見捨てるの反対語があるならそれは何だろうか?
「見拾う」と言う言葉はない。
調べると「見直す」とか「見込む」が出て来た。
しかし、当人が何か行動していないと周囲は見直すことも見込むことも出来ない。
見守ると言う表現があるが、これなど何か不覚的に優しい感じがするし、守るのは付き合う側がする動き。
なので、「何か進んで行動する訳ではない人が欲しがる、見捨てられてない感じ」として、この「見守る」が見捨てるの反対になるのだろうか。
だとすれば、不思議なことだ。
守られていなければ、捨てられている?
そう主張できるのは、抱かれて授乳されオムツを換えて貰わなければ生きることに支障が出る乳飲み子位ではないだろうか。
赤ん坊達はそんな主張しやしないが。
変てこな主張や要求もする頑なな人々は、それなりに我を通す為の技術を磨いている。
本筋に向けない分の力をそこに注いでいる為、巧妙さは相当なものである。
実に上手くやるので、彼らに対しどこか変だと感じつつも、何となく丸め込まれて一緒にぐるぐるした気分になったり、つい彼らの方に意識がよそ見したりして集中の途切れている人は結構居る。
本道を行かれる皆様の中で、お近くに頑なな人々が居られる方は、彼らが上手に行う独特な粉飾も見抜くことが出来る、中立な観点を磨く必要がある。
例として、彼らがどの様にしてモノコトを粉飾するのかをちょいと挙げさせて頂くことにする。
彼らは例えば、自らの頑なであることを「一途である」と粉飾する。
そして、自らの足りない点を挙げて一応のバランスをとる意味も含めて「不器用である」とも粉飾する。
マイナス要素を挙げておくことによって「如何にも中立である」風が装える。
しかしこの「不器用である」には何故か「その分、誠実である」みたいな、やっぱり粉飾出来る謎の紐付けがしてある。
不覚社会では割と抵抗なく受け入れられているこの紐付けは、実際とても奇妙だ。
不器用な者が誠実な者である保証など、この世の何処にあるのだろうか?
何につけ疑り深い不覚の意識がここに関してはすんなり通すのが本当に不思議だ。
逆に「器用」は「嘘が上手い」と紐付けられることもあるので、嘘に騙されることを怖れるあまりにセットで「これはこう言うもの」と広まったのかも知れない。
そのどさくさに紛れて、不器用さを使って誠実さのある体にするなどと言う目論見は、お分かりの様に結構ちゃっかりしている。
ちゃっかりと言えば目端が利く感じがするが、鈍いからこそ出来るちゃっかりもあるのだ。
不器用と誠実を一緒くたにして平然として居られるほど鈍くなった感覚は、能面級に厚塗りな化粧みたいなものだ。
そこまで厚い面の皮だと、色んな頑な対応が可能になる。
「知りません」「分かりません」「何も感じておりません」
「ですから何も聞き入れません」
「諦めて望み通りにして下さい」
「放っておいて下さい」
「でも見捨てないで下さい」
こうした要求を通そうとする時、そこに誠実さはあるだろうか?
火を見るよりも明らかである。
遠慮なく、誠も実もない相手と認めて、意識上で距離を置き中立に観察されること。
加速する変容の流れは頑なに自らの望みを通そうとする人々や、彼らにしがみつかれ自らもしがみついている、頑なに世話をし続ける人々の面目をそれぞれ保って来た厚塗り粉飾を、じゃんじゃん押し流して行く。
洗い流されて出て来たものを受け容れられるかは、各人による。
鼻の下がのびていたり、ふくれっ面だったり、ほくそ笑んでいたり、能面の下は様々。
飾り立てたものがドロドロになって流れて行けば意識はそりゃワーキャー言うが、どの顔も全母は愛おしく観察している。
只、塗り直してはくれない。
粉流れて、様にならず。
(2020/12/3)