《海と岸》
内へ内へ入って行く意識の旅は、「海に潜る」ことに似ている。
海の中では、陸での肩書きや人脈、生きる為に獲得して来た全てが、意味を失う。
魚や水母、蛸、烏賊、クリオネ、昆布、何やかや。
普段、人が陸の上で抱えている様々な「欲求」や「不安」を、海の中を行き交うもの達は誰も「何とかしよう」としてはくれない。
そうした「誰も操らず、操られず、自ら生きていることを全力で味わっている」もの達が居る所から、更に奥。
深海の生物も居ない、更に奥。
もういのちの気配もない場所、そこまで着いて、ふっと「海に在って空に触れる」感覚が起きる。
自我が消え、個が消え、天地の別が消え、生死の別が消え、
只、在る。
その経験をして陸に戻る時、潜る前とは意識の状態が違っている。
目の前に立ちはだかっている様に感じていた“諸問題”が恐るるに足らぬものと分かったり、潜る前の、器の小さい自らが周囲を操ろうと画策して来た姿までがありありと見えて、厚かましい振る舞いが自然と止んだりする。
「良くないから気をつけて、しないようにしようね」と理性で止めていた時と違い、単純に“自分”の図々しさが馬鹿らしく感じられるのである。
海に潜り、一回り大きくなって出て来る。
「内観」と言うチャレンジは、本来ここまで自他を手放すものだが、気安く内観を言う者は、せいぜい「胸に手を当ててしみじみ静かにいい子でいる」位の認識でいる。
それは千回万回やっても、
変化を起こさない。
本気で海に潜り、その度に大きくなる経験をし、陸での変化を実感している者達からすれば、岸辺に座ってたまに足先に触れる波の冷たさについて盛んにお喋りするだけの者達はそれこそ、
正気の沙汰ではない
風に、見えるのだろう。
「何やってるの?入って潜らなきゃ意味ないでしょ?!」
と、驚愕する様子を見る機会があり、実行する者としない者との大きな差を感じた。
岸に座る者達は、海のことを尋ねる様でいて、実際は岸辺の環境を心地いいものにしようと、あれこれ聞くだけに留まっていたりする。
「対岸に見える、最近話題のあの人は、一体どう言うものなんでしょうか?」
「岸辺に景観を損ねるものが積み上げられて、どうにも視界に入って気になってしまうのですが」
「これまで、自分が如何にゴミで岸辺を散らかして来たかが分かって反省しています」
岸辺のあれこれについて出来る限りのことをお答えし、さて、海に潜ることについて話そうとすると返って来る反応は大体、こうだ。
「水、冷たいんですよね~」
ひゃっこいし、慣れないし、誰も褒めてくれないし、たった一人で海に潜るなんてご勘弁。
そうして、又、岸辺のことに話を逸らす。
誰も、その岸を、
海に変えてはくれない。
背中を蹴り飛ばして海中に落としてくれもしない。
岸が海に変わる日は来ない。
岸辺暮らしを少しでも良いものにしたいだけの人々にとっては、海は夢見るのみで充分なものなのだ。
それに宮司を名乗る“これ”が付き合うことは、どんどん難しくなっている。
そんなこれが「どう在る」のかと言えば、海も陸も全て含む空間として在る。
奥の奥に意識が入って、新発見をしたりもするが、その間も全体に溶けている。
当宮記事は、そうした空間存在が海中の水を陸に放って送る様なもの。
それを切っ掛けに水に慣れて海に入る人も居れば、「今回の水、冷たっ!でも我慢してればたまに温いの来るんだよね」と、岸に座り続けるのみの人も居る。
“これ”には、その両方が観えている。
「あの水、良かったです!美味しかったです!」と言うことと、「じゃ、ちょっくら海に入ってみます」となることが全く繋がってないのも知っている。
岸に留まって、海からのメッセージに耳を傾け、
「この響きが聞こえるのだから岸に集まってもいない人々よりは、海に潜れる可能性が高い」
と、安心することに何の意味もないのだ。
必要なのは、足指が水に触れただけで、身をすくめて後ずさりする現状から目を逸らさずに、向き合うことである。
海か岸か、正直に見よ。
(2020/1/17)