《段々の気づき》
地域によって差はあるだろうが、東京では未だ電車とかエレベーターとか密になりそうな箱の前に人がわらわら集まると、時折ピリッとする空気を感じる。
「遠慮しろ」
「いいやお前が遠慮しろ」
と無言で圧をかけ合う、逆ダチョウ倶楽部みたいな状態に遭遇したある時。
同乗してみてもいいが、この数か月こんな感じの見続けても大して変わらなかったし、じろじろ眺め回して水差してもなあと腕組みした。
ピリッとなるのも、そこをグッと耐えるのも、人それぞれに何か必要があってしている体験。
「大切な機会だし邪魔しないでおこう」と、以来、電車はすいている所に移動、エレベーターも余程の理由がない限り乗るのをやめて階段を使ってみることにしている。
そんな切っ掛けで上り下りし始めた階段だが、この所これが実に味わい深い気づきをもたらしている。
同じ建物を利用する人に話したら驚かれたので段数を確認したら、昇降合わせて一日平均八百段程、よいしょよいしょと足を運んでいた。
その位の量をゆっくり気楽なペースで移動しているので、静かに気づきが起きて来る余裕もあるのだろう。
ごく稀に人に遭遇する時以外、マスクも要らない。
窓がないので景色も変わらず、只、数字だけが今居る場所を示してくれる。
上っている間たまに上が、日本のどこか分からない苔むした石段が遥か上まで続く神社なんだか寺なんだかや、海外のやっぱりどこか分からない石段の沢山続く遺跡なんだか城なんだかの画像を示して来る。
「確かにそれよりかはね。って、どこ連れてくつもりだよ」
と、ちょっと苦い顔をしておいた。
何で苦くなったかと言えば、
世間の動きも見て、まだそうしたお出かけをする感じではないから。
そんなこと勿論承知である上が、
この時点で準備運動を含めて指示を始めていると言うことは、
出かけるなら相当な所になるだろうから。
そしてその流れを宮司を名乗る“これ”は止めようがないからである。
止める気も別にないが、何だあの石段。
ヘリと言う粋な選択肢を出して来ないと言うことは、全体生い茂っていたり崖的な感じで発着が不能な気配。それはもう顔くらい苦くもなる。
そんなこんなしながら、じっくりゆっくりと階段を上がっている時に気づきが起き、本来、昇るのも降りるのも価値に変化などない「移動」なのだと、改めて実感した。
上昇志向と領土拡大によって人類は、産めよ増えよ地に満ちよの感じで「上&前後左右」に増え続けて来た。
そして没落や降下を恐れ、地下にイメージ設定した「冥土」エリアに入って土に還ることを恐れている。
恐れて嫌がっているのに、一方でそれに強く惹かれてもいる。
重力と遊びながら階段をひょいひょいと下りて行く時には、そのことに気がつけた。
死や闇やあの世についての人類の態度は、思春期の気まぐれな少年少女みたいである。
つける薬がないというやつなので放っといて、自らその思春期を終えて育つ者を観察する他ない。
上下前後左右、この世に見えるどこへ行こうが、
人の本質はいささかも変わりはしない。
変わるのは何をするかによってであり、
その何が愛で行われているかによってである。
皆様の元にも突然これまでにない動きをする機会がやって来たら、それに乗ってみられること。
不覚社会でさえ“新しい生活様式”が求められている様に、時代は大きな変化の波を受けて動き出している。
ビックリしたりちょっと顔くらい苦くしても、歩みは止めないことをお願い申し上げる。
宮司の様になどせず、爽やかに即「よろこんで!」と受けられても勿論結構である。
石段のある風景に興味が出て調べ始め、
「色んなとこあるなぁ。
あ、石段の長さ日本一ってここだったのか。
二千何百段?そんなあったっけ」
と、以前行ったことがある神社の画像を眺めた。
五重塔がいかしてた記憶しかない。
そこから辿ってみて、印象がない理由が分かった。
上りが車任せで、気楽にホイホイ下りて来ただけだから。
体力的な事情があってとかではなく、単純に楽と時短がしたかったショートカットズル参りである。
不覚時代に経験した、別に修験でも御利益目的でもない観光にズルと言うのも変な感じだが、真剣にあれを上がってみるのも面白い様な気がした。
段々と、行って初めて分かることもある。
アクセス出来る領域もある。
「天狗と相撲とか、とれちゃうかもな」
と、楽しくなって腕を振ってみたりしている。
段々と進む歓び。
(2020/6/4)