切るに切れず、又も長くなりました。
誠にあいすみませんが、週末に手の空かれた折にでも、飽きない程度に適当な所で区切るなどなさって頂き、皆様それぞれに良い塩梅でご覧下さい。
来週月曜の記事は、なるたけあっさりと仕上げます。
では記事へ。
《歓喜の呼応》
逡巡する人々と、ひたすら実行し進化して行く人々の差を分けるものは何か。
実行し進化して行く人は、申し上げたことへの回答や報告がスムーズかつ的確である。
この明確さは、“知力”の一種と言えるだろう。
彼らには、自身が意志することを実行に移す行動力がある。
これは“体力”の一種と言えるだろう。
彼らは丁度いいペースで財を循環させてもいる。
巨万の富を誇る人物に会ったことはないが、枯渇の窮状に惑う人も見たことがない。
その時々の必要に応じて循環させる、これも“財力”の一種と言えるだろう。
では知力や体力や財力に恵まれて産まれて来た人物が、目覚めにも恵まれるのか。
答えはNOである。
人型生命体は様々な差を持つ“宿題”を携えて物理次元にやって来る。
だが、目を覚ます可能性に関しては平等で、差をつけて生まれて来たりはしない。
「自分ばっかり貧乏くじ!」と言う方は、ド派手な宿題に恵まれてこの世に来たと言うだけのこと。
しかも自らで自らにギフトした宿題である。
地頭が良い、地肩が強い等、生まれつき秀でている様に感じるものに人は「地」を付けたりする。
全部まとめて、「地力」と出来るかも知れない。
この地力は何処で違ってくるのか。
地力の大きさに、誕生から物心つくまでに置かれた環境が大きく関係すると読み解く人々は不覚にも居る。
当宮でも、その期間に何か決定的なことがあるのかと観察してみた時期はある。
だが、愛のない家庭で育ったことがその人物から地力を奪い去る訳ではなかった。
「温かい家庭で育ったこと」、「肉の両親が愛し合っている男女でもあること」は、かなり近かったが違っていた。
そうした環境に居なかったのに、進化する方も居たからだ。
決意や覚悟、これも勿論「違い」ではある。
だが決意や覚悟を腹から出来る人々と、奥歯を噛みしめる程度で決意や覚悟をしている気分になる人々との間にも、地力の差を感じる。
この差はどの段階で出来たのかと観察に観察を重ねた。
そしてついに最も近い解となるだろう、ある発見に至った。
不覚的にはおよそ信じ難い内容かも知れないが、もう、この時には小躍りした。
イヤッホウ!
これによって逡巡する人々を救えるからとかではなく、単純に知りたかったことが知れた歓びで躍った。
とは言え、逡巡する人々がその段階から出るヒントにはなるだろう。
こちらは既に個を超えているので、知りたいことは皆、自然と全体に向けて活かされる。
逆にそうしたこと以外は知っても、もう歓びにはならないのだ。
では、発見について申し上げる。
人型生命体が肉の母からこの世に誕生する時、全母たる虚空は無上の歓喜と共にその愛し子を送り出す。
この歓喜は、言わば小さなビッグ・バンなのだ。
そこで子の誕生を、全母と同じ無上の歓喜で迎える人物が男と女、両方揃っている時。
無と有の両側から歓喜の呼応が成される。
歓喜する人物は肉の親でなくとも良いし、血縁である必要もない。
愛深い無関係な人物の方が、ある意味親族より呼応し易いかも知れない。
この歓喜は、「損得抜きに」が必須だからだ。
やれ跡取りだとか、将来や老後の安心だとか、世間体だとか、一族の繁栄だとか、そうした雑事を持ち出して、不覚の親族は新しい命が「只、産まれて来たことの歓び」を濁らせてしまう場合がある。
それも「良かれ」でしているので、誰も思い止まらない。
そうした助平根性のない、損得など思いもかけない、只々「うまれたぁ~!!!」と言う、歓喜。
この呼応の有無が、産まれて来た子が物理次元を素直に受け入れる力の有無にそのまま通じている。
出た現場が、送り出した見えざる愛の場と地続きであり変わらぬものだと腑に落ちている子には、様々な地力が自然と備わる。
素直に受け入れるとは、従うと言う意味ではない。敢えて言うなら「無用な疑いを持たない」とでも出来るだろうか。
歓喜の呼応がないと、何でも一々疑うし、疑わしさを拭えないまま警戒し、勝つことや優れること無事なことで始終安心していないと落ち着かなくなる。
だから、勝ちや成功や興奮を求め、一方で無用な破壊衝動も持つようになる。
他者の失敗や敗北にほくそ笑み、自身の人生だけを順風満帆にしようとしつつ、それでいて何処かで自らも含めて「全部壊れてしまえ」と望む衝動が生まれる。
結局何処まで行っても自他は無いからである。
だが、不覚の意識がそれを知り得る機会はおよそない。
自覚無きまま頓珍漢かつしっちゃかめっちゃかな欲求が発生、それに翻弄され、進化の本道を行くはずであったエネルギーは殆ど吸い尽くされる。
更にややこしくなると、好戦的な破壊衝動が暴走するのが怖い為に、無気力なポーズでコーティングして抑え込もうとする。
一見、地味で大人しくしおらしい者も、「破壊衝動を抑え込んだ臆病者」なだけだったりするのだ。
歓喜の呼応がなかった人型生命体は、不覚の眠りが深い。
分厚い殻に覆われている様なものである。
だが、それも又、自らが自らにセッティングした重めの宿題に過ぎない。
誰かに押し付けられたり、背負わされたものでは一切ないと言うこと。
そして自ら解こうとするなら、解けない宿題はないと言うこと。
地力の少ない人々によくあるのが「ワタシはして貰ってません」「ワタシの分が少ないです」「ワタシだけ苦しいです」「ワタシは反省してます(と見せかけて、「不満です」)」の主張。
だが、これからは「物理次元のサービス悪い!」となる前に、
「自ら何を求めてこの状況を発生させたのか、一体何を教えてくれようとしているのか」
に意識を向けて、そこから発見して行くことだ。
そして、地力に溢れ進化する人々よ。
当宮まで辿り着いていながら、逡巡する人々に比べて自身を優れていると位置づける人は居られないだろうが、何ゆえの地力かと自らに申し伝え、それが
「先に目を覚まして多くの人々の目覚めに必要な協力をする為」
であったと、思い出すことだ。
目覚めるにあたり、順序や殻の薄さ厚さに価値の違いはない。
必要なのは、それぞれがそれぞれの持ち場でベストを尽くすことだけなのだ。
今更、優劣もないもんだ。
(2019/11/21)