《欲の意味》
起こることを観察し味わい、歓びと共に、一つ一つの体験をして行く。
すると、『○○して欲しい』と言う求めは、消える。
不覚の人々は、常に何か欲しがっている。
「自分の楽しみなんてさっぱり浮かびません」
「したいことなんて別にないです」
「欲しいものも特にないです」
そう言う人々にも、個人の楽しみではない、「欲しいもの」がちゃんとある。
職場環境が、公正な状態になって「欲しい」。
家族が争いなく仲良くなって「欲しい」。
私の気持ちを分かって「欲しい」。
望み通りに動いて「欲しい」。
幸運の女神に微笑んで「欲しい」。
抱えている問題を解決して「欲しい」。
誰かの為に尽くしている様でも、欲しいのは自身の心の平穏であり、欲望には変わりがない。
「地位と名誉欲しい」「お金沢山欲しい」等の分かり易い欲に隠れて、こうした目立たない欲も不覚社会には溢れている。
当宮も宮司も、『欲しい』と望むことを、否定も肯定もしない。
只、欲しがっていれば欲しがっている程、目覚めには遠いと言うことは申し上げておく。
宮司を名乗る”これ”について言えば、人間の欲望の、種類と内容に関して少し興味がある。
上からは、そんな話は聞いたことがないし、こうして記事を書いていても何の反応もない。
人型生命体の発生以来、無数の欲を見続けて来たろうから、もう興味とかそうした段階を超えているのかも知れない。
煎じ詰めれば、欲望に大した種類はないことは分かっている。
それでも、「最も目立たない欲は何か」等、観測するポイントはある。
ちなみにこの記事を書いている時点で発見している欲の中で、最も「別に当然の権利でしょ!」となって、人類が欲と見なしていない欲、欲の色が薄い欲は、
放っといて欲しい
である。
放っとくか放っとかないかは、相手の自由。
その相手を放っとくか放っとかないかは、あなたの自由だ。
これ程に分かり易い自由があるのに、個の都合で、人は簡単にそれを踏み潰す。
何故、『欲しい』と、目覚めから遠いのか。
『欲しい』には常に、「相手の自由意志の無視」がセットになるからである。
「もしよろしければ、○○して頂けたら嬉しい」
これが100%相手の自由意志に任せての言葉なら欲ではないが、
言外に「断らないでね!」の圧を加えたら、それは「欲しい」になる。
放っといて欲しいは、ほぼ無色透明の様な欲だが、色は薄くても柄が派手と言う不思議な欲も発見している。
無欲な人だと見て欲しい
これは「清廉潔白」とか、「無邪気で健気」とか「のんびりして優しい」とか、それなりの性格設定をプラスして、「欲がない人!」と周囲に見て欲しがるので、発見は簡単。
只、意味は分からない。
無欲に見て欲しい、って、ガリガリに痩せる為に食べたい、みたいな状態であり、「手品?」級に摩訶不思議な欲なのだ。
欲とは他を動かすのでなく、
自らの動きにして初めて機能するもの
と、記事を書いている間に、上から言われた。
そう言えばそうだった。
前に、欲望については色々教わってたのだ。
忘れてた!
成る程確かにそうだよ、と納得して膝を叩いた。
誰の自由意志も踏みにじらない欲、自らの『意欲』こそが欲の健やかな現れ方である。
他を動かそうとする欲は、こうした欲の本義からずれているので、他欲とでも呼べばいいだろうか。
「目覚めよ!」
が、他欲なら
「目覚めさせよ!」
も、他欲なのだ。
全体一つで何、欲張れる?
(2019/5/7)