《標頼りに?》
先日お目にかかる機会のあった方から、「しろさんに目標ってあるんですか?」とお尋ねを受けた。
空間であり個の自分像が意識にないので、個としての目標と言ったものはない。
ないし、目標が欲しいと感じたこともなかった。
全体の流れに沿っていると「これをするのが必要なのだな」と言うものは道々に自然と分かって来るので、それをしている。
物理次元の進化パズルを埋めて行くピースだと納得したものについては、直ぐ実行するか直ぐでなくとも引き受けることは了承するか、返事は二つしかない。
あまりに急だったり、多岐にわたる内容であると、驚いてツッコんだりちょっとごねたりする。
そうした「!」や「?」の反応はあっても、やはり返事は二つきりで行う時期の違いしかない。
冒頭のお尋ねがあった時には、目標はないことを申し上げつつ、久し振りに「そう言えば人は何かと、理想を叶える目標を欲するものである」ことを思い出した。
そこから、あるクエスチョンが浮かんだ。
目標と予定って、どう違うの?
上を含む空間から自然と伝わって来た、する必要のあることについて、「やるんだから、予定だ」と認識していることに気づいた。
そして進んでいた。
目標も「目にする標」であるのだから、進む者と対等にあるのだと認識していたが、不覚の人々の言う目標は常に上目に設定される。
「そうか、坂を行っているのか!」
と、腑に落ちた。
目標を好む人は、進化を向上と思っている。
出来ないものが出来るものに変わる。
技術力や経済力が向上することによって、不可能が可能になり、好感度も上昇し、地位や影響力が上がる。
「上へ上へか…」
世の中には特上になることやなろうとすることに生き甲斐を感じる人々が居る。
一方で不貞腐れて下へ下へ行くのに夢中になる人々も居る。
上や下に価値の違いを作らない空から観ていると、ポジティブもネガティブも無から有へと発するエネルギーの出方の一つ。
虚空の全母から毎瞬送られるエネルギーで子達が描く自画像で、使う色が違っているだけだ。
そうして毎瞬「今の自分」像を物理次元に作品として描きながら、その今の自分が更に、理想の自分や目標に達した自分を意識内に描いている。
意識のビジョンを屏風に例えるなら、「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」感じになる。
「こうなりたい自分」を描くだけの夢に入る人々は、好きな色しか使わずに今の自らには無いと感じる色も使って豪華に彩る“絵”を描く。
手の届く目標を立てるのが好きな人々は、もう少々写実的に「こうなりたい自分」を描く。
他との差別化を図る為だろうか、「落ちる所まで落ちつつある自分」を描く少数派も居る。
賑やかなことだ。
こうした意識内プライベートミュージアムの運営には、相当なエネルギー予算を裂かないとならない。
エゴに関することだけで、不覚の人から集中力の大半が失われるのにも納得である。
生きる中で進みの目印として目標を立てるのは、別に悪いことではない。
不覚状態で目標なしに歩んでも、飽きて賑々しいエゴ芸術祭に混ざりたくなるか、不覚を馬鹿にして「何もかもつまらない」とか「虚しい」「下らない」と厭世的になるかに走りがちだからである。
只、その目標が
不覚社会と言う「ちっちゃなエゴ三角」の中で自らを、より上に近く位置させる為に立てたものなのか、
それとも不覚による制限の解けた自由な存在に変容すると、意志したことで立ったものなのか、
方便で包み隠さず、正直に見ることは必要。
正直に見て本道と違っていたなと感じたら、根源の問いに意識を向けてみれば、新しい目印を標す場所が分かって来る。
毎瞬の光景は常に新しいキャンバスに、描かれている。
腑に落として標せば、これまでの手癖から自由になったものが出来上がる。
それは本当に美しい。
我で狙わず、愛で標す。
(2021/4/5)