《根の前に》
「あぁ、成程」
先だって申し上げた土作りの一環で、まずは昨年に一年草達が来て去った後の鉢から土を出してみて気がついた。
干からびた細い根が土の中に沢山残って、血流がなくなった後の毛細血管みたいな姿になっている。
家庭や、学校、会社、店、何でもそうだが、区切って分けた特定の場所にはそれをそれとして機能させる為に作り上げたシステムが沢山ある。
時と共にこのシステムは古くなるのだが、結構そのままに放置されていることも多い。
「これはこう言うものだから」と言う固定観念。
時流に合わなくなっても延々続いている、もう誰も必要性を説明出来ない慣習。
取りあえず表に見える部分を多少変えておけば、やった気になると言う雑さ。
それらは皆、根を残す。
「枯れた古い根が沢山残る中では新しい根が活き活きと伸びることは難しい」
と言うことは、全然難しくない。
つまんで取り出した古い根は、一年草だった為かトウモロコシのヒゲみたいにパヤパヤして簡単に引き抜けた。
しかし、植えるものによってはもっとガッチリ土中に太い根が残る場合もあるだろう。
まずはそれを掘り出さなければ多少新しい土を足したところで、新しい種も苗も古いものの間を縫って育つことになる。
隙間を縫うだけで、結構なエネルギーを使う。
根を掘り起こすプロセスが欠けていることが、様々な“鉢”である学校や職場、家庭での窮屈な状態を生み出している。
とは言え、学長や社長、店長、家長と言った鉢から古い根を取れそうな人達が音頭を取ってそれを掘り起こすまで只待機することはない。
折角古い根があるのだから、それがなぜもう枯れているのか、どれだけ場所を取っているのか観察出来る。
そして今の今、自らで自らに課している古い習慣、枯れた根はないものか振り返って確認出来る。
一個人と言う“鉢”に伸びて場所を塞ぐ古い根もあるのだ。
それを引き抜くことが出来る。
しかしこんなに簡単なことを、自称万物の霊長がこれ程長い間見逃しているのは何故だろうか。
学校で植物を育てることは古くからされているし、敷地で植物を育てる会社も珍しくはない。
観葉植物は職場でも家庭でもごく当たり前に置かれている。
直接育てる機会がなくとも、土も、鉢も、育ち行く植物も、目に触れる機会はごまんとあったはずである。
育てる機会があった人々が気がついて、それ以外の人々に知らせる機会もあったはずである。
人は人と日々関わるし、そこには当然共通する言語があるのだから。
よいしょと、背を伸ばして「う~ん、やっぱそうだよなぁ」と、並ぶ鉢を眺めた。
黒々とした新しい土に、色とりどりの新メンバーが植わっている。
「この金魚草より向こうの薔薇が大事ってことないしなぁ」
と、気がついたのだ。勿論、薔薇より金魚草が大事と言うこともない。
何かより何かが大事とか、好きとか、価値があるとか、優先したいとか、そうした判断が特にない状態で、育つ環境を用意し観察している。
己の価値観で作り上げた「俺ピラミッド」の基準に沿って「俺ガーデン」を作ろうとしている訳ではない。
一々の判断でくたびれ果てることがないから、
地中の根を楽しみながら丁寧に取る余裕があるし、
空になった鉢に新しい土を入れる作業を苦もなく出来るのだ。
古い土も日に干してふるいにかけて肥料と混ぜれば再生する。
掃除も含めた二時間ほどの庭仕事の中で気づけたことが沢山あり、それらをまとめ上げ、
「古い根の前に、エゴ程自然な発育を妨げるものはない」
肥しにもならないし。
と言う気づきに至った。
万物の霊長を名乗る者達が、確かに霊の長とか言っている時点で底は知れるが、それでも一応の知恵が回る者が、古い根を見過ごして平気な理由もそこにある。
日除けの帽子を目深に被り過ぎ、殆ど何も見えず手探りで作業しているからである。
人同士密に関わろうが、共通言語があろうが、意識が塞がれていれば伝わるものがない。
以前申し上げたこともあるが、エゴは帽子の様なものであり、生きたエネルギーではない。
エゴ帽を取ると、塞がれていた純粋なエネルギー、意気が顕わになる。
上手くやる方法を人から得ようとコツだけ根掘り葉掘り聞いて回っても、動かなければ変わらない。
エゴと意気が別だったと知る覚悟を決めて、シャッポを脱いだ後でないと分からないことがあるのだ。
禍根残さぬ、新天地。
(2021/3/22)