《有無を超える》
“何かがあるってことは
別の何かがないってこと”
この当たり前すぎてアホみたいな真理に気がついたのは随分前になるが、それをその通りだと改めて実感することは現在でもちょくちょくある。
変化の波に揉まれ何かとストレスが溜まるからなのか、タバコを嗜む人々の喫煙量が増加傾向であると言うニュースを先日観た。
その時、宮司を名乗る“これ”には目下、禁煙をする機会が失われていることに気がついた。
何故ならタバコを吸わないから。
もしこれから禁煙しようとしたら、一旦吸い始めて、吸うことが日常的になるまで馴染ませ、その後に禁じないとならないだろう。
長い道のりになりそうな感じ。
健康志向の昨今、「そんな機会いらない」と言う人は多いかも知れない。
だが良い悪いの判断や価値基準での採点をせずに、全てを単なる体験の機会として並べた時、“何かがあるってことは 別の何かがないってこと”と、しみじみ分かる。
その他の機会について意識を向けてみたら、何でかヘリコプターのイメージが浮かんだ。
差し当たって、ヘリを操縦する機会にも恵まれていない。
ヘリを持っていないし、免許もないからである。だがそこで、
「ん、まてよ?」
となった。
所有しているかどうかや、免許があるかどうかは、ヘリを操縦すること自体の絶対条件ではない。
「所有してないヘリを、無免許で操縦する機会はあると言うことか。逆に」
罪に問われたり色々な騒ぎは起きそうだが、する気はないにせよ、一応その機会が巡って来る可能性はあると言うことに気がついた。
何だってこんな話をしたかと言えば、不覚の人のイメージする全能感は、言ってみれば有能感だからである。だが、
有能さだけ欲しい、無能は要らない。
これでは、「全とは何か」分かる日は来ない。
全≠有
知識や教養、情報処理能力のあることも有能さの一つに数えられるがこれらは目に見えない。
有意義も、目には見えない。
物理次元上で目に明らかなものだけを人は有としている訳ではない。
「エゴにとり意味があるかどうか」が、不覚の人にとっての「有」である。
アリナシをエゴが決めている。
その有だけをどんなに集めても、全にはならない。
全=有・無
「有無を言わさず」の表現があるが、言うのを禁止する必要もなく、意識と御神体を通して感じられる有と無が、分かたれぬ一つとなる時、有無を超える時、只、全に在る。
先頃ひょんなことから手に入れた、植物等自然にあるものを活用する様々な治療法がまとめられた本を面白く読んだ。
早速、何でもいいから試してみたくなったが、どうにも難しい。
治療が必要な状態が、特にない。
何て言うか、読み物としては面白いが感覚として遠い。
ギリシャ神話みたいな感じである。
そんなある日、ふとした切っ掛けで首に軽く寝違えの様な痛みをゲット。
「よーし、来たこれ!」と材料を買ってその晩、本に載っている湿布を作ろうと腕まくりした。
「里芋ある、生姜ある、小麦粉ある…あ!しまった」
材料ばかりに目が行って、塗って貼るのに使う布を買い忘れた。
しょうがない朝一番で買いに行こうと、寝て起きたら、
もう治っていた。
チャンスの神様には前髪しかないと言うのを聞いたことがあるが、そんな感じだ。
逆サイドを痛める可能性も無視出来ないと、買った材料をしばらく取って置いたがそんな機会もなく、そうこうしている間に里芋の一つに芽が出た。
生えたいのかいと空いていた鉢に植えたら緑の棒みたいなのがどんどん伸びて、ある日突然、お洒落な傘でもパッと開いた様に葉を広げていた。
それに気づいたのは丁度雨が上がった所で、葉の上に大きな露が一つ、驚く程の美しさで輝いていた。
こうした状態を「宝石の様に」とか表したりもするが、その時目にしたのは本当に露にしかない美しさで、宝石とも他の何とも比べることが出来なかった。
先日里芋をすり下ろす機会を失ったのは確かだが、これはこの里芋が里芋のままでいなかったら見る機会のなかった美しさだと、葉と露を眺めながら理解した。
“何かがあるってことは
別の何かがないってこと”
そして、どちらがあろうとなかろうと、変わらず弥栄は成るものなのだ。
全に在り、福に至る。
(2021/6/7)