《既にあるもの》
本道を行くことに本気になった人々は、目を覚ますとは追加で何かを手に入れることではなく、既にあるものを開くことだと気づき始める。
目を開けようとして、閉じた瞼の上に別の眼球を装着したりはしない。
人生上に現れる様々な場面での満足や納得を生む基となる至福。
それが、人型生命体が真に必要とするものだが、エゴが被さった不覚状態であると至福を地味で退屈に感じる。
だからもっと興奮出来る強い刺激を伴う幸福と、反対の不幸とをセットにして求めることを中々やめない。
「至福は逃げない、全体一つなんだから結局至福になるんだしそれまでハッピーアンハッピーセットで遊びたい」
それはそれで結構だが、全体一つの至福が成された場面に、不覚のままの人物を運んで行ってくれるサービスはどこにもない。
だからその個体は、虚空に回収となる。
と言うことは目覚めた人型生命体として至福を味わう機会は無いわけで、じゃあ一体何が「結局そうなる」と言うのか。
この様に不覚の言い分はいつも、袋小路に入る。
覚めてみて、仰天と納得が同時に来る不思議な感覚と共に理解したのは
「今まで何も見えちゃいなかったし、聴こえてもいなかったんだな」
と言うことだった。
それがそれである、そのものが、
何と冴え冴えと晴れ晴れと美しいことか。
こうしたそれそのものが見えていないのに、不覚の目に映る景色を気に入った様に変えようと頑張るのは何故なのか。
見えていないからこそなのだろう。
不覚の目に好ましく整えたい我欲であれ、
目覚めに向かうつもりでその為に欲すると言うことであれ、
求めるものをこれから手に入れようとするなら、力尽きるまで似たりよったりな意識状態での、物理次元散策を続けることになる。
要を満たすものは既にあるのだ。
「まだない!」気がするのは錯覚であり、荷を解かずにその場に寝転んで、「開いてない」と泣いているだけだ。
必要なのは、もっと良さそうでもう開いてそうな荷を手に入れるのではなく、既にある荷の包みを解くこと。
荷の結び目は二重になっている。
初めの結び目には「誇れるもの自慢出来るものではありません」
次の結び目には「あなただけに特別に贈られたものではありません」
と書いてある。
それを了解するなら、不覚の覆いを外すことが出来る。
さあ、することをしていないのは、虚空か人か。
どちらだろうか?
届いている荷を解かぬ者に構う必要あるだろうか?
自立しつつある方々におかれましては、目覚め願望を「いつか王子様が」のノリで繰り返す相手には、そのことをはっきり伝えること。
そして彼らが欲しがる慰撫に付き合わないことが貢献であると、知って頂くことをお願い申し上げる。
願望の表明は、猶予の許可証明にはならない。
ここまでの道のりを振り返れば、「一度もなってなどいなかった」ことは明白ではないだろうか。
貸す必要のない手は伸ばさないのも愛なのだ。
既にあるものに、深く感謝。
(2021/2/11)