《揺れて返して?》
近頃出たある広告についての、ニュースを見た。
小さな力士と「さ、ひっくり返そう」の大きな文字。
広告の中に書かれた文章を一行ずつ読むと、意気込んでいた心が次第に揺らぎ、絶体絶命の窮地に追い込まれる所までを、なぞることができる。
と、そこで俗に言う「現実」の厳しさを見て終わりではなく、まだ続きがある。
ここまで読み進めたことへの礼と、次は下から上へ一行ずつ読むことが示されている。
上から下へで意気が下がり、今度は下から上へで意気が上がる。
つまりは、人生上起こる様々な出来事を、どう読み進めるかは自分次第、と言う訳だろうか。
こうした、希望は絶望に則ち絶望は希望に、上昇は下降に則ち下降は上昇に、何であれ逆にも成り得ると言う偽の達観は、以前から人類に好まれて来た。
一行ずつ読み遡る様式も特に目新しいものではなく、海外でも同じ様なものが既に生まれている。
右から左へ、あっちからそっちへ、ぎっこんばったんのシーソーゲーム。よくこんなに続いたものだ。
シーソーゲームがどうして可能になるかを問えば、大抵の人はそうした真逆の要素が両端にあるからと、答えるだろう。
当宮の記事を集中してお読みになられた皆様にはお分かりの様に、その答えは違っている。
シーソーがシーソーとして動けるのは、
真ん中に支えがあるから。
このトンガリがなければ、只の板である。
そして、トンガリの外れが起きつつあるのが変容の時代。
「大事なおもちゃが、動かない板に?」
これはエゴには耐えられない。
エゴは揺れを糧にして、生を感じるからだ。
しかし支える中心がなくなれば元も子もないのでは?
そうお感じになった方。
中心はなくならない。
只、統合されずに左右に分かれていがみ合いをする概念達のお守りはもうしない、と言うだけのことである。
全体一つの流れに沿って、ころころ変わる心や引き摺り回したがる頭の世話をやめる。
と言うか、そうした状態に心や頭を鈍らせて、それらに巣喰うエゴの世話をやめて、天意からの愛を発揮する。
その様に、既に変化し始めている。
この流れに乗らないなら、支えを失って動かなくなったシーソーの板に座って、癇癪を起こすかベソをかくだけである。
必要なのは、未だ多くの人々が取り憑かれた様に遊び続けている比較シーソーを降り、静かに独り立ちすること。
それは、意識が大人になって、そして全体を慈しむ天意からの愛でのみ、初めて成せる。
変容の時代には、現状を信念や頑張りでひっくり返そうとする必要は別にない。
返そうとしなくても、自然と成る返しがある。以前申し上げた《感覚を洗う》で、起きていることだ。
冒頭にあげた広告の小さな力士には、《感覚を洗う》に書かれている、極小でありながら力に満ちた「点」、虚空から無数に点滅する粒々の姿が現れている。
ナイス・チャネリング。但し、エゴの範疇を出ないままで虚空のメッセージを受け取ると、こうしたポジティブ誘導が含まれた鼓舞となる。
それも誤りではなく、目を覚まそうとしながら、「う〜ん」と打った、寝返りの一つなのだ。
揺らすだけなら、進まない。
(2020/1/9)
来週は火・金の更新となります。