《振動と昇華》
先日珍しく、外出する用事のない、ぽっかりと空いた一日があった。
数年前ならぷらっとどこかへ出かけたり、一端末である“これ”の楽しいと感じることを求めて気ままに過ごしていたろうが、どうもそうした気になれない。
何だかそんな場合ではないと、どうにもそわそわしちゃう春なのだ。
その日は当宮用の作文をするのと、お目にかかる方々用にあれこれ作ったりするスペースの掃除に充てることにした。
片付けが終わり、仕上げに掃除機をかけようとしていた時。
遠くから「ドーン」と言う音が次第に近づいて来るのに気がついた。
「ドーン…ドーン…ドーン」
近くにある神社が主催する、春の祭りが今日だった模様。
多分「カラカッカ」みたいなちいちゃな音も混じっていたろうが、建物の中にまで届くのは「ドーン」のみ。
その振動は、空間を伝って広がり、通り過ぎながら何もかもを細かく揺らしていく。
太鼓と共振するように、内側からも振動の発生を感じてとても愉快な気分になった。
掃除機をかけつつ、近づく「ドーン」の音に乗って踊っていたら一層楽しくなり、全部終えたら体が軽くなっていた。
踊りが加わったことで爽やかさが増したのもあるが、掃除そのものが御神体を、そして意識も軽やかにする。
家庭訪問の先生とか、普段付き合いのない親戚とか、大勢のママ友とか、訪ねて来る誰かからのツッコミ回避で綺麗を目指す掃除は、疲れるかも知れない。
それは気疲れであり、自発的で気楽な掃除は心身を爽やかにする。
余程「掃除途中でぶつかって、作りかけの精魂込めた巨大ドミノを崩した」とか、稀なる理由がない限り、
「あ~あ、やめときゃよかったなぁ。掃除」
とは、ならない。
筋肉は裏切らないと評判だが、掃除だって裏切らないのだ。
掃除に対して気が重くなる印象をお持ちの方がおられたら、「これまで裏切られたことがない」と言う事実を思い出し、気楽に掃除と触れ合ってみられることをお勧めする。
初めに書いた「そわそわしちゃう」。
不覚社会では、押し寄せる不安とシャレにならない出来事の乱発となって轟いているものが、全体ひとつである為に「そわそわ」位のふんわりとした揺れとなってここにも届く。
不覚を保つ安全装置が既に外れているので、目を覚ますことをないがしろにしたままで、素敵ねとこれまで讃えて来たお気に入りの物達を保存しておくことが難しくなっているのは、皆様既にご承知の通り。
人々がずっとそこに在り続けてくれると思っていた「大」きくて「聖」なるものから、発火が起きたりもする。
それも改修と言う、善かれの思いなどによって。
もう善も聖も、
保存される為の
資格にはならない。
地元の人が「何でこの場所なのか」と語っている記事を見た。
全ての場所は平等に虚空の天意を受けるフィールドだが、敢えて言うなら「表面上のあくまで一部分である場所に、ゼロ・ポイントを設置していた」ことが挙げられるだろうか。
「パリから○○km」を示す起点でしかなかったとしても、「ポワン・ゼロ」を名乗っていた場所からいのち火が湧き出たことは象徴的である。
ゼロ・ポイントは中心の奥底にあり、どこか表面上に置かれるものではない。
表面世界での大規模なお焚き上げを待たずに、お一人お一人が内なるゼロを意識し、毎瞬の昇華に力を注がれること。
待たない世界であるのだから、
世界の何かを待たなくとも良いのだ。
爽やかに昇華する。
(2019/4/18)