《戻らぬもの》

 

先週、出かけた先で豆まきを眺めていた時のこと。

 

「はい、年の数だけ」

 

まいていた人がそう言って豆を、掌に振り入れてくれた。

 

「1、2、3…今、8才だ」

 

 

「まぁ、そんなもんでしょ」

 

と言う会話で笑った後、帰り道に「8才?」と浮かび、少しして「…ああ、成程!」と気がついた。

 

2013年11月に目が覚める体験をしてから、そう言えば約8年程が経ったことになる。

 

確かに、8才である。

 

あれからどんな変化があったか。

 

 

覚めてから一年位の間は、ちょっと奇妙な言い方になるかも知れないが「何もかもに満足することに、満足している」状態だった気がする。

 

只、それがそれであるだけで十分で、他に何の必要も感じなかった。

 

覚めるまでは内なる問いを暗がりを照らす灯りに掲げて進んだ。

 

一灯を携えて暗夜を行く中で多くのものから、最終的には何もかもから意識独立果たした

 

何にも依らない独立による真の自立が、驚くことに全への帰還と言う扉を開けた。

 

 

入る前に有った扉は、振り返れば既に無く、只のが満ちるのみ。

 

宮司を名乗る“これ”もそこに全として在る

 

この一体感が、そのまま外に起こることへの納得に通じている。

 

振り返れば、誰かに促されたり支えられたり、導かれたりして目を覚ました訳ではなかった

 

その為、まさか目を覚ますことにガイドや伴走の役割が必要で、まさかそれを“これ”する様になるとは知る由もなかったし、から散々示されても認めることが出来なかった

 

 

「知らんがな」で大分通していたが、それも出来なくなって当宮を建立し、以来今の今まで出来ることをし続けている

 

覚めてからの体験が増えれば増える程に、“これ”の中にも変化が起き続ける。

 

直接お目にかかる機会があり、必要なことをお伝えし伴走している人々は相当洗練されて来て、殆どが進化している実感のある方に絞られて来ている。

 

同時に“これ”は、覚めようかどうしようかの段階で迷い藻掻き逡巡する人々に、感覚的に寄り添うことが難しくなっている

 

ましてエゴ三昧で、覚めることには

 

「知ってますよ。いよいよシャレにならなくなったら、本気出します」

 

 

と、目くばせ程度の人々や、その気すらない人々については、人型生命体ではあるものの、

 

“次第に固まりつつある壁画”

 

として観察するのみとなって来た。

 

「とか何とか言って、我々多数派が目を覚まさなかったら物理次元、終わりじゃないですか」

 

 

そんなことは全くない。

 

日々、新しい人々が出て来るからだ。

 

その新しさによって伝え方も全く変わって来るし、伝える係も新しい端末に代わったりする

 

何の問題もないのだ。

 

だから誰も何も、迷いたい者が迷うこと止めはしない

 

かつて会った者との時間も関係も、逆回転させ巻き返すことは出来ない。貯めておくことも出来ない

 

全て戻らぬものである。

 

内なる問いを感じ、立ち上がりたいのなら、

 

立たせて貰うことをまず、諦めることだ。

 

 

宮司と言う“これ”は、物理次元をより広く深く観察出来る様になった分、過渡期への共感は薄れつつあるが、それでも変化し続ける役割を全うし、役に立ち続けることは変わらない。

 

戻らぬものも、まだ見ぬものも、全て虚空天意から生まれている

 

生きると言うことは、変化し続けることなのだ。

 

掴まなければ、軽くなる。

(2021/2/8)