《憐憫ブーム》
不覚社会に生きる人々が何を求め、何を思い、何を感じているのか。
それらを知るヒントとして、ニュースの他にもその時々に流行る力を持っている作品を観たり読んだり聴いたりしている。
そうしていて気づいたのが、ここ十数年で随分と憐憫が重用されていると言うこと。
悲劇や心温まる話に共感や同情をして涙を絞る他者に向けた憐憫が派手に盛り上がる間、その陰で世の無常や生き辛さの苦しみを嘆き訴える自己憐憫も増殖し、どちらも中々に我が物顔をして創作市場で幅を利かせている。
「人類って、こんなに憐憫好きだったっけ?」
と、前時代の流行りと比較したりして不思議に感じてはいたが、これまではせいぜいが
「まぁ日に日に不覚の思い通りにモノコトが運び行かなくなって来ているし、その不自由さで自分を憐れに感じもするのかも知れない」
とか、
「他者を憐れんで興奮し、やり過ごさないと足らない位に、活力不足に陥っているのだろうな」
とか、
「目覚める時期の到来にうっすらと気がついていても不覚への未練が残って踏ん切りがつかず、取りあえず憐憫に夢中な振りで誤魔化しているのか」
と言う程度の認識でいた。
つまり憐憫を、不覚者が選んで用いている時間稼ぎや気晴らしの道具だと見ていたのだ。
「そりゃまぁご勝手にですけど、だからと言ってそれで何とかなるもんでもないでしょうに」
と、呆れ半分で腕組みして時代の流行を眺めていたがある時、驚く様な気づきが起きた。
「あ!!!そうか!!!!!」
文字&記号にするとこの位驚いた。そして一方で、
「逆に何で今まで気がつかなかったんだ!!!」
と言うことにもビックリした。
憐憫に酔わないかどうかが、目が覚めるかどうかの重要な試しになっている。
そして、憐憫をもよおさせる気配の波が、変化を促す虚空から送られている。
憐憫は、自他の溝が深いだけ大きく酔うことが出来る。
憐憫は、決定権、力の出所、責任の所在等が「自分の余所にある」とすることで出来る。
憐憫は、自らを子供や子羊と言った「子」と見なし、親的存在と分けることで出来る。
変化を促す、と書いたが勿論万人の変化を促すのではなく、変化する者は変化するのでそれを促す動きである。
つまり、変化する者としない者の差が明らかになる動きでもある。
そして、宮司には何とも嬉しいお知らせがこの気づきと共に舞い降りた。
酔わぬ者に
注力せよ。
憐憫が押し寄せても、そこに酔うことをせず、震えながらでも自立している者。
彼らに意識の照準を合わせる時期に、既に入っていると言うのだ。
それを受け取った瞬間の意識状態を表現するとこう。
「ヤーーーーッホウ!!!!!」
目に見えない山に、感謝と歓びを放ちたくなった。崑崙にでも送ったのだろうか。
そう言えば、お目にかかる中で目覚ましい成長を遂げて逞しくなられておられる方はいずれも、憐憫に酔わない方々である。
彼らには「これから」とか「そのうち」「いずれ」と言った濁しがない。
未だ会ったことのない人々にも、彼らの様な“自ら立つ者”は居る。
年齢も様々、性別も住む地域も様々なその自ら立つ者達に意識を向け、発見したり力を注ぐ時期にこちらは来ている。
逆を言えば、憐憫にハマっている時点で、意識や力を向ける必要がない相手と言うことになる。
不覚の混乱と共に膨れ上がる憐憫について、その意味と理由が分かったことで、初めて憐憫ブームに感謝した。
未だ子供気分子羊気分から抜け出せない人々にも、窓口は塞がずに残しておいて構わないらしい。
なのでそうした人々については、ここからは最小限の力で対応させて頂く。
そしてお目にかかる方、かからない方含め、全ての自立者の方。
あなた方に向け、最大限の力を発揮する。
立たせる協力をする時期は既に過ぎた。
立つ者を発見し、力を注ぐのみである。
憐憫花火に、手を振る夏。
(2020/7/6)