《憂しと見し世ぞ?》
“ながらへばまたこのごろやしのばれむ
憂しと見し世ぞ今は恋しき”
(生きながらえたなら、つらい今も懐かしく思い出されることでしょう。
つらいと思っていた昔が今では恋しく思えるのだから。)
だからとりあえず頑張りましょうや、みたいな歌なのだろうか。
ひょんなことから舞い込んだ、この百人一首の84番目の歌について不思議に感じた点があったので、本日記事にて書かせて頂くことにした。
作者の藤原清輔朝臣は、勅撰和歌集の撰者も務めた父顕輔との対立や確執により、不遇な時代が長くあった人物と言われている。
左京太夫であった藤原顕輔も百人一首の中で79番目の、
“秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ”
と言う、冴えた観察眼と自然描写の腕を見せたオシャレな句を残している。
これだけ当人が出来たので、身内への採点も相当厳しかったのか、それとも気が合わなかっただけなのか。
その辺りは分からないが父から子へと、実権の継承を象徴する儀式が行われたのは顕輔が世を去る年だったので、もう、
本当にギリッギリのキワッキワまで、
次代に譲るのを渋った
感がある。
渋りに渋られた末にやっと後を継ぎ、才能を発揮し当時の歌壇における重要人物の一人となった清輔。
冒頭の和歌はそんな彼が、悩み多き時代から日の当たる場所へ出て、ふと振り返った時に、
「あの過ぎ去った辛い日々も恋しく思えるのだから、
今だってきっと懐かしく思い出せるさ!ガンバ!」
としているポジティブな歌なのだと言う風な解説を読んで、首を傾げた。
後ろを振り返って、前向きに捉える。
何だか良く分からないが、忙しそうではある。
過ぎてしまえば全てが懐かしい思い出だとして、それを「恋しき」と表現する。
人は、まだ手に入らない未来にも、もう手に入らない過去にも「恋」しさを感じる。
愛する時、そこには0距離の集中が発生している。
愛は距離を無くし、距離を超えるが、恋には物理的な距離か少なくとも“距離感”が必要なのだと気づいた。
人を恋うる時、恋しさは対象の人物以外を背景にする。
時を恋うる時、恋しさは「今」を、恋しき時の「オマケ」にする。
先に書いた不思議に感じた点は、ここにある。
念願叶ってやっとこさ日の当たる場所に出て、するのが不遇時代を懐かしむことと「だから辛い今も大丈夫」と言う励まし。
キーヨにとって、
今が辛くなくなる日って、
来ないの?
親父に圧をかけられ過ぎてマゾヒストの才能が開花したのか、元々ちょっと暗めの人生観の方が落ち着くタイプだったのか。
何にせよ「辛さこそ人生の醍醐味」みたいなのは、これもある意味偏食と言える。
ベースを辛目にして、その間に甘味を挟むスタイルとかだったのだろうか。
そうした人は、現代不覚社会にも結構居る。
今は当然あるもので、辛く苦しい思いもしながら必死で取っ組み合うもので、そんなものには振り返ってからじゃなきゃ感謝など出来ないと。
グッドセンスな皆様はとうに「とりあえずここ頑張って乗り切ろ!」では、どうにも立ち行かず、堂々巡りにしかならない時代が来ていることは御承知のはず。
今を恋うことは出来ない。
今とは瞬間であり、そしてあらゆる時全てを合わせたものであり、
恋うものではなく、まして乞うものでもなく、只、愛するものなのだ。
人からすれば愛するもの。
そして今とはまさに愛である。
愛に、恋うも憂うも叶わず。
(2021/5/27)