《感謝の理由

 

本日は勤労感謝の日。

 

勤労が人々の間で「やらされてる感のカタマリ」になって大分経つ。

 

大多数が「腹いっぱいおまんま食えたら幸せ」モードだった時代と違い、現代は「より良いものをより楽に手に入れたい」欲が増した。

 

そして自らが体験していない生活も、世の中に様々あると詳細に知ることが出来るようになった。

 

 

働かなくとも暮らせる人々だって世の中には居る

 

とか、

 

仕事が遊びみたいになっている人も居る

 

とか、

 

沢山の生活を横目で見つつ「自分の」と比較し続けるので、勤労のある暮らしはくすんだイメージになり易い。

 

 

学生の頃にこなして来た、

 

「退屈とか緊張とか不自由とか嫌なことも多い授業を我慢する時間の後に、

 

 好きなことばかりして自由に遊んでいい時間を貰える」

 

と言うプログラムを、社会に出てからもそっくりそのまま持ち越した状態で暮らしている人は多い。

 

「いい子にしてたらいいものあげる」と言う引き換え提案は、学生生活が始まる前の幼児期から沢山与えられている。

 

余程の“我が家の王子様お姫様暮らし”をした端末でなければ、大抵は「何にもせんでいい目見れるはずない」の教えが刻まれている。

 

 

「はずない」から、真面目にコツコツやろうとか、「はずない」から抜け道探して上手いことやろうとか、エネルギーの使い方は人それぞれだが、いずれにせよ「はずない」が前提であることは変わらない。

 

「はずない」の思い込みは何をするにも不覚の意識に覆い被さって、実行の歩み重くする

 

苦しみの元になっているのは勤労自体ではなくその「思い込み」や周囲や世間との「比較」なのだが、それは中々認められない。

 

いつか自分が遊んで暮らせる様な“優位”に立った場合の旨味も手放したくないし、人間は結構「つらい体験の共有によって周囲との順調な交際を図ろうとする。

 

 

社交に便利だと言う点からも、勤労への不満は手離し難いのだ。

 

勤労感謝の日にもいつの間にか、

 

「辛い思いも沢山しながら頑張って大変な仕事をして働いている人たちに感謝しよう!」

 

「そんな勤労をしている自分に感謝して褒めてあげよう!」

 

 

的な意味合いが多分に含まれるようになった。

 

「勤」の字の左側にあるには、「小さな」とか「細かい」と言う意味があり、そこから「勤」には「細かい所まで力を尽くす」意味が出て来る。

 

「労」は旧字の「勞」を見ると分かり易いが、「炎の様に力を出し尽くして働く。仕事をやり遂げるの意味があり、やり尽くすので更には「(ねぎら)う、(いた)わる」そして「疲れる」と言う意味も出て来る。

 

疲れる、と言うのが不思議だがスポーツなどで全力を尽くした時の感想で「心地よい疲労感」とか表現するのを見たことがある。

 

 

「はぁ~しんどい」みたいな慢性的に溜まりまくって不調を生む疲れとは違う、人が「疲れ」と感じるものもあるのだろう。

 

そこに意識を向けて観察してみたら、感じ取れたのは「燃え尽きた脱力感」。

 

「これ…疲れかな?」

 

と、謎に感じながら、労に「疲れ」の意味があると言う記載を再び見つめた。

 

これは「はずない」プログラム普及してからの後付けではないだろうか。

 

 

細かい所まで力を尽くすことそのものが歓びであるし、

 

炎の様に力を出し尽くして働き、やり遂げることそのものが歓び

 

 

それを分かって歓び実感もあると、「いい子にしてたらいいものあげる」の引き換えを必要とする不覚的勤労は、騒々しく矛盾と波乱に満ちていて、そしてほんのりと可愛らしいものに映る。

 

ほんのり可愛らしくとも、抱っこしたり撫で撫でしたりと構うことはしない。

 

そうした終始幼子コースを行く人々を「お帰りなさい」と抱擁するのは虚空としての全母だからだ。

 

好きなだけ騒ぎ、抱かれてかたちを解いて帰って行く

 

  

こちらはそれを微笑ましく眺め、手を振るのみである。

 

勤労感謝の祝日は新嘗祭の後釜的に生まれたものだが、当初は「生産感謝の日」そこから只「感謝の日」となる案だったのが「何への感謝か分からない」と言う理由から、付け足す感じで「勤労感謝の日」となったそうである。

 

「何で生産感謝から生産が抜けたんだろう?」と不思議だったが、生まれ産する流れは人間にとって当然のことで別に感謝の必要はないとしたのかと気づいた。

 

鶏が卵を産むとか米や野菜が育つとか、生まれ産する動き自体には我慢や頑張りはなく、良いものを沢山生産する為に頑張り、時には我慢もするのは生産者。

 

 

そうした考え方で、我慢頑張りのないものに感謝する気にならないなら、あくまで不覚的勤労についてではあるが「勤労感謝」となっても不思議はない。

 

不覚の人々は自然環境について、人間の為に用意された設備として感謝の意を表することがある。

 

しかし、「生まれ産する流れのあること」には、およそ感謝しない

 

 

そうしたままでは勤労の本質についても分かること難しい

 

隅々まで行き渡るは、生まれ産する流れ一体のものだからだ。

 

変容の時代に沿って、大人になるとお決めになられた方は、不覚的勤労意識からのご卒業必要になる。

 

すると自然に湧き上がる感謝に、「何への感謝か分かる様に」とエゴに意味の分かる理由付けを求めたりもしなくなるのだ。

 

有りて在る、それが理由。

(2020/11/23)