《愛新しく》
あけまして
おめでとう
ございます。
本年も全力投球で、参ります。
あけてめでたいお正月。
正月と言えば、以前は年末年始に世を包む束の間ゆったりとした静かな雰囲気に、「何があろうと結局は、見えない秩序に守られている」安心を人々が感じたり、
この時期、天地に満ちる澄んだ気配に、「新春の報せに心は早くも春めいて、これから何か良いことのある様な」気がして嬉しくなるとか、
そんなノリが概ね変わらなかった。
人類史上「そうじゃなかった正月」もあるのだが、ここ数十年「何だかんだ言って人は天地に見放されてない」ことを確認して一安心みたいな状態が続いていた所、数年前からじわじわと不覚にとって“不穏な気配”が増して、今回やっとはっきり偽の安心小芝居がストップした。
年始から、めでたいムードとそんなこと言ってる場合かムードがガチンコでぶつかり合い、バランバランになっている。
「有難いなあ」と眺めている。
見放された訳ではなく、こうやって自立の機会を用意されている。
そもそも当たり前に、天地も又、自らである。
自らをどうやって見放せると言うのか。
体験の為に人型にINした体にはなっているが、本来虚空と質においては同じである分神は、天地と分かれた存在ではない。
自らで自らに贈った、「中」心に独り「立」つ機会。
不覚と言う夢を終わらせる機会。
こんなに有難いことがあるだろうか。
一足先に覚めたのではっきりそう感じることが出来ているだけで、有難さは誰においても不変。
虚空と言う点に立ち返ると「誰も居ない」のに、誰においても不変。
こうした真実を眺めていると、とても愉快だ。
空ジョークは波動が細かすぎて中々世間で理解されないが、それでも面白いものは面白いので、構わず味わって楽しんでいる。
全として中立に在ることを、部分として大勢の中心に立つこととすり替えたままでは、何時まで経っても“優れたいゲーム”が終わらない。
「優れたいからこそ人類は進化して来たのだ」?
そう思う者は、人類進化の物語を途中で読むのを止めたのだろうか。
優れたさで肥え太れるのは、蛹の段階まで。
糸が切れて枝から落ちる程巨大になった蛹が未だ食事を続けたがっている状態に、不覚社会はなって久しい。
だが優れたさによる増築では、当たり前に溶解と変容は起こらない。
見下ろす為に優れることと、全体に愛を放って新しいこととは、全く異なる。
その新しいことが、結果として優れて見えるとしても。
愛であることと新しくあることは不可分で、そしてそこに優への執着はない。
どれだけ新しく、どれだけ愛であれるか。
それに尽きるのである。
愛は常に新しい。
(2021/1/4)