《愛と観察》
何年か前の夏に、道に仰向けになった蝉を見つけたことがあった。
陽に照らされたアスファルトの上で、全く動く気配はない。
眺めていてふと、蝉を食べるのが好きな、見知った犬のことが意識に浮かんだ。
都会の蝉は、田舎暮らしの彼女にとって珍味かも知れない。
「潰さないようにポケットに入れて行けば、夏らしいお土産になるな」
と、手をのばして片側の羽根を掴んだ途端、蝉が勢いよく騒ぎ出した。
びっくりしながら蝉をつまんでいた所に、思いがけない事態が重なり、物陰から現れた人と出くわす形になった。
洒落たスーツを着こなした北村一輝似の男性が、宇宙人でも見たかの様な表情で動きを止めたのを見て、それはそうでしょうよと納得した。
夏の暑いさなかの霞ヶ関で、暴れる蝉をつまんで突っ立っている大人など、まず居ないだろう。宮司も見たことがない。
男性に会釈し、流れる様に自然なフォームで蝉を植え込みが作る日陰の中に放した。
蝉泥棒から、命の保存にやたらと熱心な人と言うシフトをしてその場を去ったが、仰向けになっていたのが蝉の自由意志なら、無粋なことだったかも知れない。
この体験を経て、「蝉が案外粘り強く生きている」ことは知っていた。
何だってこんな話をさせて頂いたかと言えば、先日素敵なニュースを目にしたからである。
高校生が、「蝉の命は7日で尽きるものではない」ことを、大変地道な調査によって実証したのだ。
報告によれば、蝉の中には自然な環境でならば1ヶ月程生きる個体もあるらしい。
最初はその調査方法の面白さに唸っていたが、以前に、
「自身を中年から老年期にあると認識する人々が、それより若いとされる人々を羨むこと」
について、
「地上に出て来て5、6日の蝉が、
出て1、2日の蝉を羨むようなもの」
と言う様なビジョンを上に示され、笑ってしまったことを思い出した。
「上は蝉がもっと生きることを知らない?」と首をひねったら、「もっと調べて!」と来た。
そこで調べてみると、「何故7日説が広まったか」の理由があれこれ出てきて、その中に「ああ、そう言うことか!」と膝を打つ内容があった。
人間が捕らえて観察した状態だと7日位が関の山だったから。
何事も人間のペースで生活が運ぶ環境下にあって、蝉にとってそれがベストかどうかは全く不明。
しかも、蝉はストレスに弱い虫なのだと言う。
捕まりっぱなしで調べられる蝉は、そっくりそのまま「エゴのペースで生きる不覚の人類」に当てはめられる。
「エゴペースを抜けて、一般人が驚く長命さで伝説となった仙人の様な存在達」は、自然に抱かれてそのペースで生きた蝉と言える。
この重ね合わせの妙に、「成る程見事なものだ」と、感心した。
同時に、生き物の真価発揮を観察するにあたって、特にこれからは「彼らがありのまま自然に過ごすこと」が不可欠なのではないかとも感じた。
特にこれからは、としたのには理由がある。
人類と人類以外の生き物達との交流の歴史を眺めると、強いストレスを与えたり鍛え上げて調教したり、種を採って沢山増やして選別することで、ちょっと強引に能力を引き出す学びをしていた時代もあるからだ。
だが、もう時代は既に変化し、そうした旧式な学びへの追い風はなくなっている。
旧式の無茶を可能にしてきたのが、「ロマン」だとか「伝統」だとかの不覚美学だが、不覚の美が崩れるのに従って、そうした美学も無事ではいられなくなる。
人類が様々な真価発揮の観察者としての役割を、観察対象への愛と敬意を基本として進める時代が到来している。
先程申し上げた高校生の方が行った調査は、自然の中で蝉を捕まえ、その羽に番号を書いては解放し、それを繰り返すうちに
「既に番号を書いた蝉がまた捕まるかどうか、捕まったら前回からどの位経っているのか」
を記録することで成し遂げられた。
蝉生を謳歌する中で、多くても「しまった(驚)!」が数回訪れる程度に、蝉側のストレスが軽減される、大変ジェントルな調査である。
ジェントルと書いたが、紳士は「紳士のスポーツ」とか言って、理想の為に他を使役して平気の平左衛門だったりするので、全母性の活かされた調査と言う方が適切かも知れない。
「また捕まえられるか分かんないし」「いつ捕まえられるか分かんないし」「そんな長時間黙々と働くの疲れるし」
そうした思いに引っかかっていたら、この様に地道な調査は出来はしない。
捕まえちゃあ放し、捕まえちゃあ放し。
夏場に住宅地や雑木林で2ヶ月程も調査し続けたそうである。
子供の頃から虫に興味があったとは言え、調査なさった方も決して「楽だった」とは思ってらっしゃらないだろう。
だが、楽出来る出来ないを超えて「蝉生の、本当の所が知りたかった」好奇心が、調査を続けることを可能にした。
そしてその好奇心とは、そのまま愛なのである。
真価知る、進化の歓び。
(2019/8/8)
来週は、火・金の更新となります。