《 当に然り 解放編 》
理を想うに留まる“理想”を人が道理扱いし、その道理に沿った動きとして互いに求めて来たのが人工的な当然。
この作られた当然には、ある重要なものが決定的に欠ける。
それは、感謝である。
「当然のことをしたまでですよ」
と言う台詞も形の上では、感謝は不要であることを示している。
これまで当然だとして来た行いに、この欠けていた感謝を捧げると、「当然」で縛られて仮死状態みたいになっていたその行いが活性化し、体験が消化・昇華される。
これが全一への解放となる。
「感謝?」と、拍子抜けした方もおられるかも知れない。
そんなことで解放されるんですか?
そう、そんなことで。
様々なスピリチュアルのセンセイ達が、感謝の大切さを口酸っぱくして説き続けても、てんで理解されないのは、感謝が多くの人にとって「そんなこと」だからである。
地味だし、
お金かかってないし、
快感もないし、
目に見えないし、
だから誤魔化しもきくし、
第一、
感謝することって、
感謝されないじゃん。
讃えられもしないし、
褒めても貰えない。
何か、張り合いがないんだよね。
こんな感じの理由で、感謝を本気ですることに多くの人が後ろ向きである。
自動掃除機能付き家電の様に、「自動感謝機能付きハート」が売られていたら、こぞって注文するんじゃないだろうか。
勿論、そんなハートが有る訳もなく、感謝ほど誤魔化しがきかないものもないが、不覚の目隠しをしている間柄ではポーズのみの“見せ感謝”が流通し幅をきかせている。
目が覚めていると、それらが感謝風にラッピングされた「派手な賞賛」や「金品を含む返礼」等の、見返りであることが分かるが、エゴの色眼鏡を通すと包みの中は見えなくなる。
そんな感謝不足の時代。「当然なこと」に対して向けられる感謝などいよいよないと、お分かり頂けるだろう。
実感を育てて頂く為、まずはご自身のなさって来た当然なことへの感謝からお始めになること。
他の端末達への感謝であると、相手から目に見える形での反応を求める期待が出て来る。
当然だとして来たことについては、先の発見編で申し上げたことを実践なさった方々は、既に見つけて下さっているはずである。
「わたしが、わたしに、感謝するんですか?」
「「○○として当然」の良識のもとに、周囲に尽くして来たのは確か。
でもわたしがわたしに感謝して何になるの?」
「わたしがわたしに感謝をしても良いの?」
「それって馬鹿馬鹿しくない?」
ちっとも馬鹿馬鹿しくなどないし、自らに感謝をすることの重要性は既に申し上げた通り。
感謝することの歓びを実感なさっておられる方は、反応など気にならないだろうから、自他問わずジャンジャン感謝を捧げて頂きたい。
心底からの感謝は、内側に得も言われぬ暖かな輝きを起こす。
その見えざる光が静かに広がるのを感じる時、「一体、他に何が要る?」となる。
酒で酔いを買う者達は、この暖かさの代替を求めている。
だが、皆様ご承知の通り、
“これ”に一切替えはきかない。
さあ、どこから始める?
(2019/11/14)