《 当に然り 発見編 》

 

ものの言い方が生まれて変化しつつ広がって行く様子を観察するのは面白い。

元は「當然」と書いた「当然」を、ある時に「当前」と当て字して、そこから「当たり前」が生まれてと言う流れを見ていて、

「そう言えば‟当然”程、不覚を縛り操るものもないなあ」

と、頷いた。

親として当然。

子として当然。

 


男として当然。

女として当然。

 


目上として当然。

目下として当然。

 

様々な当然が不覚社会に浸透したことによって、一定の秩序めいたものが保たれて来たことは確かだ。

だが、そこから外れる様な動きは、愛のあるものもないものも一緒くたにして封じて来たのも又、事実である。

本日記事にて申し上げられるのは、

当然は、殊に当たり前変換が起きた後の当然は、結構な曲者である

 


 と言うこと。

「当然のことをしたまでですよ」

 


とは、歯を磨いたとか挨拶をしたとか、ホントに当ったり前とされることをした時には、言われない。

当然は概ね、ハードルちょい上げで設定されているのだ。

そして、手前にしろお前にしろ、不覚が勝手に「前」と設定した一部分に都合良く出来ている

当然の然は本来、自然の然。

全体一つの流れに沿っているものこそ、「当に」「然り」と言える。

 


当たり前の前も本来、本道を行くのに向く方が前。

だが、人の作った道理を説く為に當然や当然を使い始めてから、特に「当たり前」を採用した辺りから歪みが大きくなり、我と言う手前の勝手に周りを操っていいと言う不覚常識が出来上がったらしい。

何が曲者かって、忍者みたいに隠れながら地味浸透しているところである。

「おのれ曲者、であえ、であえ!」


こんな感じに気がついたり、勘の良いのが「タァッ!」と天井に刀か槍を刺しでもしてとっ捕まえれば不覚社会の「当然」が持つ矛盾も明らかになるのだが、中々最初の気づきが起きない状態が続いている。

お目にかかる機会のある方でも、

「その当たり前、当たり前ではないですよね」

と申し上げて初めてハッとなられたりするので、そうした支えもなしに普段の生活の中で当然の隠れ蓑ベロリと剥がすのには、かなりの集中力が必要となる。

 
楽ではないが、“当然縛り”でギッチリ梱包されていれば、進化は成らないし真価の発揮も出来ない。

先程並べた「親」「子」「男」「女」「目上」「目下」に関する6種類の当然で、自らを縛っているものがないか内側外に出る行動観察なさってみられることをお勧めする。

有能、無能どちらかに自らを位置づけている方は「出来て当然」が縛っていないかも、併せてご観察頂きたい。

木曜記事では、その人工的な当然解放することについて申し上げる。

観察してみて、これまで「○○として当然」で行って来たことを発見したら、メモなどしておかれると分かり易くなる。

 

解放は中立な観察から。

(2019/11/11)