《巡る命の》

 

《孤独の果て》を仕上げてからのお昼時、珍しく少ししんみりした気分で食事をしていた。

記事をご覧になった方々があちこちで聴き始めるからなのか、勝手に意識内でクイーンの曲が流れている。

それぞれの時代に、やるだけやって全力を見せてくれた端末が居た。

けれども去った者達は、「彼ら」と言うそのかたちでは、今の今物理次元の何かを新しく体験することは出来ない

 


その分、今の今活動している端末達が全力を尽くすのだ。

目の前にある昼ご飯を眺めて、そう感じた。

(「フレディ、もう初鰹食べらんないもんな…」)

 


精一杯、美味しく頂こうと箸をのばして、突如びっくりする気づきが訪れた。

て言うか、このカツオがフレディかも知んないじゃんか。

 


カツオがフレディ。

そのまま聞くと間違いなく正気を疑われるだろうフレーズだが、ご説明するとこうなる。

人でも何でも、物理次元に登場するあらゆる存在は個のかたちを伴って、している。

一つのかたちが解かれると、いのちエネルギーは、又別の存在を発生させたり、何もないと感じる様な空間に満ちて輝いていたりする。

 


そうして、流動し続けるのだ。

目の前にカツオとして発生しているエネルギーが、かつてはフレディと言うかたちを作っていたものだったとしても、別に不思議はないのだ。

こうした気づきが一瞬で意識内を駆け巡り、先程のカツオがフレディ発言になった訳である。

(「…食べ(づら)っ、…まぁいいか」)

 


元フレディの可能性を秘めたカツオに一瞬箸が止まったが、すぐに了解し美味しく頂いた

店を出て、腹ごなしにのんびり散歩しながら、世界光っているのを眺めた。

草木も、建物も、人々も、鳥や犬や猫達も、「なんにもない」とされている空間も、みんな静かに光っている。

こんなに楽しいことってあるだろうか。

存在しているだけで日々「やったぜ!」となっている。

 

巡る命の、愛しさよ。

(2019/6/6)