《封切り》

 

国家の大きな部分を安全にする為に、意に沿わない小さな部分を不安にする法律が可決即施行された海外のニュースを見て、一瞬だけ何とも言えない気分になった。

尤も次の瞬間には

「うん、そうなったか。了解」

と変わった。

何事もあっちゅう間である。

 

 

そして了解以外にない。

多くの人が、この件で揺れ動いていたのは小さい方の自由だった、と認識されておられるのではないだろうか。

揺れていたのは大きい方小さい方、両方の自由である。

小さい方の踏み止まりは大きな方にとっても重要な自由への可能性だったのだが、それは「いらん!」方へ舵切りされた。

自他はないっつってんのに、自分の頭を両手で掴んで、それをねじり切ろうとする人が居たら「ワーオ」と驚かないだろうか。

 

 

宮司も驚いた

そして「何だってそんなことを?」と、冒頭の何とも言えない気分として感じたのだ。一瞬

そして次の瞬間、

「全とは一国を以て言うものではなく、「全」と言うなら、切れ目なく全てを以て全である。

今回の件も、分け隔てない全の自由が成る一歩として起きている動きである」

ことを理解したので、「了解」と変わったのである。

 

 

理解の進みにこうして一瞬一瞬とかかる訳だが、これが物理次元に存在する醍醐味

有難く、一つ一つ分からせて頂いている

さて、殊に小さい方の部分については大きな波乱の幕開け

頼みの綱が切れ、色々な火蓋も切って落とされ、人の縁も切れ、そして又、必要な場所に結び直される

生まれた国を離れることが起きても、真の自由認め愛することが出来る者は、この世界のどこへ行こうが弥栄である。

 

 

彼らに心底からの愛を送る。

勿論、他とする者達の自由否定し追い詰め飲み込もうとする方へも、心底からの愛を送る。

そして

「自国じゃなくてよかった」

「いやいや明日は我が身」

 

 

の感想のみで又、それなりに平和な日常に潜り込んで予定調和残りを食む人々へも、心底からの愛を送る。

送ったからと言って、自動的に何かが何とかなることはない

大体、その何かって一体何だろうか

面倒なことは人任せ、明るい展開は時代任せで、何につけ“何か待ち”な人々のことも、それ以外と変わらず愛してはいる

だが、「愛しているから望みの物を与えよう、与えられるよう祈ろう」と思ったりはしない。

 


とはそうした思い入れではないことを、当宮にお越しの皆様であればとっくにご承知であられるはず。

 

先に書いた「小さい方の自由」は、過去に行われた古い支配が遺した「人工の自由でもあった。

人工の自由が潰れる時、
真の自由への封切りとなる。

それには一旦、自由がない状態を味わう場面も出て来るが、「自由とは何ぞや」の問いに人々が真剣に向き合う契機となる。

人は長い間、「締め付けの緩い大きな支配によってもたらされる気楽や安楽」のことを自由と呼んで来たが、それも終わる時期に来ている。

風の穏やかな場所を選んで、

寄り付く羊で居られる時期は、

とうに過ぎてしまったのだ。

 

愛を送り、封切りを祝う。

(2020/7/2)