《寝言戯言》
ひょんなことから二宮尊徳について調べていたら、彼の名言とされるものの中にどうにも納得行かない点が出て来た。
“道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である”
“道徳のない経済は犯罪である。経済のない道徳は陳腐である”
“経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である”
“道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である”
キリっとして言ってるはずが、バリエーションの多さでフワッと感が出ている。
それにこの「西欧の偉人が言ったのをカッコよく訳したよ」みたいなフレーズ、江戸時代の人が言うだろうか。
調べてみると本人が書いたとされる「二宮翁夜話」を分かり易くアレンジしたものの中に
「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」
と書かれており、それが初めらしい。
更なる別バージョンである。
「二宮翁夜話」には実際そうしたフレーズはなく、そんな感じのことが言いたかったんだろうな位の記述のある程度だと言う。
つまり、
「え!言ってないの?!」
嘘だろ、NINOKIN像の横に、彼の名言としてこの言葉を掲げている名所とかあるのに、とビックリした。
だが、調べれば調べる程にニノがそれを言っていないことが明らかに。
まぁ、未だ見つかっていない資料でそんなことを言ってる可能性も0じゃないだろうが、何と言うか、現時点では言ってない。
言ってたとして、“経済”の意味合いが今日使われているのとは大分違う。
「経済」のルーツは、中国の古典にある「経世済民」(世を経(治)めて民の苦しみを済(救)う)だと言われている。
救い=金ではない。
これも「経世済俗」「経国済民」等、短縮する元にバリエーションがあり、やっぱりフワッとしている。
「世の中を治めて民を苦しみから救う」と、経が治に済が救にしれっと変わり、不覚社会としてはスケール大きめの「善かれ」が発生。
不覚エンジョイ期にはこうした理想が、幾つもの時代にかけて沢山花開いた。
世とか民とか出して大志を抱く感じから、「沢山使えて経済的!」みたいに人々にとり自分事になった経済。理想のまんま幻レベルに遠くなった道徳。
それらについて論じたい時に、冒頭の名言群は便利に持ち出されるお役立ちフレーズとなったりしている。
アレンジし放題。
「多分、言ってないけどね…」
と、呟いてふと浮かんだ。
このことを知ったとしてニノが気にするかどうか。
これについては、何となく分かる。
彼の気になりポイントは、おそらくこちら。
「言ったか言わないか
正しいか正しくないか
なんてどうでもいい。
それに相応しい行いはしたのか?」
何でかと言うと、ニノは言行一致を重んじる人物だったからだ。
心を打つ為の言葉ではなく行動を促す言葉を、心底から発して来た男に向かって、
「実行は難しいですよね。でも、今日まであなたの言葉は伝わってますよ」
とか、言葉を使い回して伝えただけで一仕事した感出して言おうもんなら、一喝されるか拳骨の一つも貰いそうな気がする。
経済と道徳の元が同じであると言うのは、間違っちゃいないが、経済と道徳以外のあらゆるものも元は空で同じである。
全容を観ないままで「あるべき道」を進もうとしても片手落ち、実行と言うボートはグルングルンするだけとなる。
意識が眠りに入ったままの寝言は、本道を行くことのない戯れの言葉。
寝言戯言同じこと。
虚言妄言同じこと。
夢中でしたって行なき言は、一歩も都合良い夢の中を出ない。
前時代を本気で生きた人に感謝して、変容の時代には善かれをも昇華し超えて行く必要がある。
「経済か道徳かそれが問題だ」みたいに揺れに揺れている現代の不覚社会では、不安だからだろうか実行なき言葉が増えている。
実行なき言葉は、感覚を錆びつかせる。
錆びつくと尚更、個々人で作った善悪や好悪の基準に判断を頼りがちになる。
それらを使って、
何がどれだけなっちゃいないかを論い、
弄り回すことだけしている間に、
尻に根が生えるのなど容易いのだ。
愛なき言は易し、
愛なき行は難し。
(2021/5/3)