《守り幸う》
さて自立者の方々に向けて、天意からの愛を込めて申し上げる。
確かに大きな変化がそこかしこに起きてはいるが、「まさかここまで」の不覚癖を残した驚き方は、そろそろ手放される頃合い。
「まさかここまでのことが起こるとは」
と人が言う時、その陰には宇宙や自然や神etcの人ではないものの采配による、目に見えずとも「何となくあると思っていた秩序」が隠れている。
人間ではない大いなるものから特にクレームも来ないので、人類はエゴ都合で好き放題に不覚を謳歌した後、その行いによって崩れた均衡が生む結果に驚いている。
例えば急に人類に厳しくなった様に見える自然。
「自然の懐に抱かれる」、「自然に親しむ」、「自然に癒される」。
そんな風に優しく抱いて、親身になって、癒して慰めてくれるものであるはずの母なる自然が、まさかここまで酷い仕打ちをするとは。
親としての務めで叱ることはあるかも知れないが、こんなに「急に?」「激しく?」「容赦なく?」。
もうちょっと「はいこれはこう」と分かり易く示してくれないか。
進化しないとどんな嫌なことになるか、その内容をあらかじめ伝えて欲しい。
ちゃんと言って貰ってなかったら、まさかって驚くじゃん。
と、まぁ不覚の望みは全く天井知らず。
「まさか」と一瞬感じたとしても、分かり始めた方々なら「あれ。しかし、そのまさかは一体何を根拠にしてるのか」と言うことに意識が向かう。
不覚社会を支えて来た旧い秩序は、人型生命体が十分な体験をする為の添え木や補助輪の様なものだった。
自立する存在に、添え木も補助輪もいらない。
こうして添えられたものは外され、多少グラグラしながらも自立前進を始める方が出て来られている。
不覚にとっては「自然が猛威を振るう」「自然が牙をむく」と見えることも起こるので、その強風の中で「ずっと忘れて来た何かを思い出しつつある」方々は、相当逞しくなられるだろう。
神社で唱える、
「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」
は、伊達ではない。
守り、幸う前には、祓い、清める。
「守って幸う様にしてくれるんじゃなかったの?」
には、こう答えられる。
「その前に、祓って清め給えって言ってません?」
祓い清める禊もせずに新しき繁栄だけ寄越せとは、服を脱がずに水に飛び込んで「さっぱりしない、気持ち悪い」と苦情を言うのに同じ。
ちなみに守るには「人を不運や災厄に近づけない」などと言ったしょうもない意味はない。
全体一つの流れに沿って天意からの愛を行動として発揮する。
そうして人型生命体含むあらゆるいのち達の観察も愛で行う。
この、当たり前の誓いが守られることを意味している。
虚空の全母や神社の神々の照覧の元、「歯ぁ磨けよ!」「宿題やれよ!」を自らに言っているみたいなものである。
「鏡見なよ」は、外見を理由に相手の好意を拒絶する見下しを含んだ切り返しだが、神社にて曇りなき眼で
「神鏡見なよ」
は必要なメッセージ。
そこに映っているのは家の鏡に映っているのと同じ存在。
その存在が誓いを守る時、波乱は去り、
空間が生き生きと幸い、真の繁栄が成る。
全体一つの流れに沿って、自然であること。
そこで初めて、ちゃんとまともに守られている。
真の幸い、弥栄はその結びとして起こるのだ。
立ち、還り、もう戻らない。
(2020/7/9)