《女と家》
「うちの」と前につけて夫達が伴侶を呼ぶ時に使われるのは「妻」以外だと、「カミさん」「奥さん」「嫁さん」辺りがポピュラーだろうか。
もう滅多に聞かないが「女房」「ワイフ」なんてのもある。
平等で多様性があってと…と「ソフトでスマートで優しい社会」を頑張って目指す動きが起きて来た平成&令和。
のはずが、「奥さん」や「妻」から変化して、2、30代でも「嫁」と呼ぶ者が増えた気がする。
「うちの妻」だと夫婦揃って相手に向けてへり下る感じがあるが、「嫁」は女のみをへり下らせる印象を受けるのは何故だろうか。
世間的には優しい男、良き人物であろうとする一方で、伴侶のことは一段下げて呼んでみたいと言う、乱暴と言うかワイルドと言うか、そんか気持ちが沸いて出るチグハグさは、エゴならではである。
その動きに、亭主関白とも又違うものを感じて、気づいたことがある。
以前、外出先で
「今、嫁に食わして貰ってて」
的な台詞を耳にして、驚いた。
女を家に置いとかないなら、主人でも亭主でもないのではないだろうか。
「じゃあお前は一体何者なのだ」
と、不思議だった。
居候?
そこで当世風の嫁とは、もう「家に入ってる女」じゃなく、「家みたいな女」のことなのだろうか、と気がついた。
「今日から俺がお前の家」と宣言するのが亭主なのかと勘違いしていたが、そんな時代は遠く過ぎた様である。
関白は役職であり、出自ではない。
それなり結果出さないと、関白を宣言出来ない。
周囲がひれ伏す程の関白ではなく、共に家庭を育む伴侶でもなく、
「今日から君が僕の居場所、よろしくね!」
と、“新しいお母さん見〜つけた”的に丸投げで、大きな長男ポジションに収まる旦那達も、“子供部屋おじさん”の様な気がする。
子供部屋おじさんとは、ちょっと前に話題になった「30代以降の実家住まいの独身男性」を示す言葉らしい。
この名称を初めて聞いた時、全く違うものをイメージしていた。
子供部屋に棲んでいる、子供しかその姿を見ることが出来ない、おじさん姿の妖精。
後でよくよく話題になっている内容を確認したら全然違うもので、面白いもんだと感心した。
「家族」と呼ばれる、複数人の集団で生活をする時、集団全体の流れを一番分っている者、大人な者が、「家役」を他の者から割り振られることがある。
これは現代では結構、女が引き受けていることが多いように感じる。
一人の人型生命体の中で女性性を担当している御神体は、男性性を担当する分割意識が望むことに、何でも付き合ってくれる。
この“夫婦”は互いに育て合い、慈しみ合い、共に進化の道を歩むものだが、世間と言う外なる状態は内なる意識状態にも通じ、こちらも“新しいお母さん見〜つけた”状態が横行している。
家みたいな女(御神体)に頼り切るのではなく、
その家の中に意識が設置したプレイルーム「エゴ部屋」から男(分割意識)が出て、
夫婦揃って共に新生活をすること。
新生活とは、何か転機が訪れた直後に限らず、常に真新しく更新し続ける生活のことである。
いざ、新時代に新生活。
(2019/10/15)
母神祭を共に体験して下さいました皆様、素晴らしいひと時をありがとうございました。
皆様の更なるご活躍を、今の今、お慶び申し上げておきます。
誠に、おめでとうございます。