《奥と全》
ウイルスだけでなく、陽射しや気温もSTAY HOMEを促す今日この頃。
娯楽で発散するとか旧交を温めるとか、エゴが気を紛らわすのに使う手段がどんどん減っているのを感じる。
静かに・集中して・内側に・向き合う
ことが求められている。
内側ったって「内心色々考えちゃう自分」に向き合う程度では、「個の自分と言うキャラクターを超えた内なる中心」に向き合って生まれる変化は当たり前に起きない。
しかし、内心の自分と言う衝立をペタペタ触っていて、奥に個の自分じゃない「何か」を感じ始める者も出て来るだろう。
必要なのは「只、知りたい」と言う純粋な意志で、それが鍵となる。
「目覚めた自分になりたい」から知りたいと言った、それこそ元も子もない願望は、鍵穴を指でほじるだけの動き。
ほじくろうがベソをかこうが地団駄踏もうが、扉は開かない。
悪さして内なるお母さんに締め出されたから、エゴまみれの外に暮らしている訳ではない。
だから「お母さんが許してくれたらなぁ中に入れるのになぁ」とコドモの発想で居る限り、何も深まらないし変わらない。
エゴによる小競り合いに酔ったまま、そこで勝つ為に「覚めた状態」「分かってる状態」を作ろうとして、銭湯の壁に富士山描くみたいに、内なる扉に「開いた感じの絵」を施す連中も居る。
だがどんな絵描いたって、塗りは剥げるし色褪せる。第一、思い描きの上塗りで扉は開かない。
内側に向き合うとはどう言うことかを理解している人も少ないが、集中とは何かを理解している人も又、少ない。
不覚の人の言っている「集中」とはこれのことだ。
実現したいことの為に
感覚を研ぎ澄ます。
一球を打つ、敵を倒す、作品を生む。
等々。不覚だとこれらは大概、部分にとっての「目的」となる。
集中に目的があるとすれば、それは「全体の弥栄に捧げる」以外にないが、多くの人にとっての目的は「誰かにとってだけの成したい何か」。
重ねて申し上げるが、そうした部分目的を達成する為の感覚の研ぎ澄ましイコール集中、ではない。
集中は、今ここに在ること。
つまり、今ここの状態を
十分に味わっていること。
何かを達成する為ではなく、今ここに在り続けるのに必要だからすることなのだ。
真の集中は気づきや行動の精度をどんどん上げていく。
結果、思いもよらない素晴らしい場面が生まれたりするが、それは流れの中で自然に起こること。
狙った場面をこさえる為の集中であれば、意識に紗がかかる。
命削って感覚を研ぎ澄まそうが、全体ではない部分の意図がある限り、完全集中は成らない。
真の集中は、奥に達する。
奥は全であり、
全は奥である。
在り方と呼び名が違うだけで、本質的には何も分かれていない。
不覚の意識が見る青空には、どれだけ気が晴れようと常に薄靄がかかっているが、気がつく人は稀である。
霧も、靄も、全て消えた時、本当に言葉を失う。
これまで感覚が捉えていた晴れが、どれだけ曇っていたのか分かるのだ。
そこからは、何をしても常に意識は全体性を失わない。
そうなってからするスポーツは単なる競い合いではなくなり、創作も単なる自己表現ではなくなる。
政治も、経済も、同様。
何をしようと全体に捧げる「未だ見たことのない場面」、新しさを生むことを意志する。
その絶えぬ新しさが弥栄となる。
全体なくして集中なし。
(2020/08/17)