《大きさ次第》
先日、鳥を切っ掛けに思いがけない気づきがあったので、本日記事ではそれについて書かせて頂くことにする。
確か春頃からだったろうか、家の周辺で遊んだり、何か食べたり、良く分からない集会みたいなのを開いたりしている様々な鳥達の中で、ひと際お喋りで陽気な種類がいた。
ちゃんと見たことがないが多分全体的に灰色の、少し白やら黒やら入っているちっちゃな鳥で、正式な名前は知らない。
「ツピーツツピー」と鳴くのでツピーちゃんと呼んでいた。
これは百舌。色だけ似ている。
そう言えば最近、ツピーちゃん来ないなと気づいたある日。
夏日が続く屋上に出てみて、「ワオ、成る程」となった。
どうもツピーちゃん達のうち一羽がカラスか何かに食べられたらしく、カリッカリに乾燥した1割程が、散乱していた。
1割なのでほぼ羽と骨。
「これが頭と…、続いてんの多分背骨かな…、なんまんだぶ、なんまんだぶ」
と、箒と塵取りで弔いながらその1割程を集めた。
集める間、俗に言う「カワイソウ」の気持ちは全く起こらなかった。
それを実感しつつ「そうだよな、小さくて可愛らしい感じの生き物だから食べられちゃ可哀そうとか、別にないもんな」と頷いていて、あっとなった。
冒頭で、本日お伝えすると申し上げた気づきが起きたのである。
もし、カラスが手乗りサイズで、反対にツピーちゃんが全長1メートルとかであれば。
「ツピーちゃん、多分カラス食べるだろうしなぁ」
「え?」
驚くと言うよりしみじみ来る気づきだったので、気がついたままを言って、掃除を終えた。
この気づきで、「食べる・食べられる、恨みっこなし」を更に深く腑に落とすことが出来た。
世の中の常識を構築している支えの一つに「生物の大小による秩序」がある。
だが、進化の過程で現状の様になっただけで、違う路線を歩んでいれば、当たり前に世界は全く違う表れ方をする。
あのちっちゃくて目立たず、街ではまるで無害な雀達も、もし「両方の翼を広げると2メートル」位のサイズだったらまるで違った存在となっていただろう。
「あ~!丹精込めて育てた稲が!!」
「お前のところもか!うちのも全滅だ~」
「は~、参った。どうすべぇ~」
と、嘆かれる程に田を荒らし、“十月の悪魔”とか呼ばれていたかも知れないのだ。
愛好家が夢中になる犬や猫も、彼らが人より遥かに大きな動物で、もし腹ペコで居たら、人を頭からガブリとやっても不思議ではない。
「うちの子(もしくは○○ちゃん)はそんなことしません」と、言いきれる人があるだろうか。
今ある情の関係や秩序も、「只今の大きさありき」で進んでいることを認めると、凝り固まった常識にヒビが入る。
同時に人の生活に縁の深い動物達の、普段の暮らしについての割り切り方と言うか、現状の消化度合いに驚くのだ。
自分よりずっと強くて大きな別種の存在に、食事や運動の主権を握られて、地球のどこに住むかもその別種次第。
人ならストレスが溜まり、気がおかしくなりかねない。
そんな不自由かも分からない生活を、何だか乗りこなしている「ペット」や「家畜」と呼ばれる存在達。
彼らの器の大きさに、感服する。
共に暮らすのであれば本来は彼らそれぞれにベストな環境を人類が提供するのが当たり前なのだが、2019ではそれはまだ出来ていない。
幼いままの感覚で動物達に甘えて振り回しているのが現状であるが、目が覚めると当たり前にどの生き物も「違うかたちをとっている同じいのち」だと分かり、全体が調和しだす。
動物の「多頭飼育崩壊」や「殺処分」は、人類が全母たる虚空より授かったエネルギーをまともに循環&繁栄をさせていないことの一つの現れであるが、こうした変てこな現象も、起こりようがなくなって来る。
平和な世の中や愛ある世界を、未だに人類は、情や理性で作り上げようとしている。
必要なのは全てが同じいのちであり光であると分かること。
その全てが虚空から生み成されていると分かること。
これ無くして何も始まることはないのだ。
覚めれば解ける、力の呪縛。
(2019/6/24)