《多数決?》
相も変わらず様々な「ああしたい」「こうしたい」がぶつかり合う世の中を眺めていて、「そうか、まだこれが有効だと信じられているのだな」と気がついた。
これとは、
多数決
のことである。
しかし、歴史を観察すると不覚の全盛期にも
多くの民達の「ああしたい」「こうしたい」
より、
一部の特権階級とされている人々の「ああしたい」「こうしたい」
が多く採用されて来ている。
公然と採用されなくなっただけで、多数決より“多力決”みたいなもので色々なモノコトが決まっている状況は令和の世でも変わっていない。
だから、いつの時代にも有力者になりたがる者が後を絶たない。
“多力決”を憎んで来た人達からすれば、多数決は平等の象徴なのだろうか。
だが多数決はどこまで行っても人間の人間による人間の為の決であり、人型生命体の為にのみ存在している訳ではない物理次元は、当たり前にその決では平らかにならない。
「世界平和」
「人類皆兄弟」
「戦争反対」
こうした「ユートピア出来るかな?」みたいな試みを目指す姿勢が表向きには「勿論、良きこと!」とされて随分立つ。
舞台裏は数や力のせめぎ合いで、ずっとしっちゃかめっちゃかである。
そして、
大体みんながしっちゃかめっちゃかなのだから、
この先もきっとしっちゃかめっちゃかで行けるのだ
と、言うことにしておきたいのが不覚社会だ。
ところがそれがどうにも上手く行っていない様な気がする、と覚めないながらもどうにか気づき出した。
そうして、不覚安全装置が外れているのを実感し始めた恐怖と、この所の社会を包む変化の大きさとで不安になりながら人々は必死に支えを求めている。
人間が好き放題して起きる混乱は良いが、人間の手に負えない不安は駄目らしい。
疲労困憊しつつ終わりの見えない、ずっと何かから逃げ続けるこのゲームに、もしも裏で糸を引いている鬼が居るのなら退治したい。
そんな風に邪魔者を、外科手術的に取り除くことを欲する人々も居るだろう。
只、この流れはゲームではないし、罰でもないし、自然な変化であって病でもない。
全世界規模でアンケートを取り回答を集計し、しっちゃかめっちゃかで居続けたい人が大多数だったとしても、流れは止まないのだ。
不覚の人々が良きものとして好んで来た、「力を合わせて事に当たる」と言うやり方も、この流れを止めることや変えることが出来ない。
メンバーに、どんな有力者を連れて来て加えたとしてもである。
人の数がどれだけ有っても、社会で通用する力がどれだけ有っても、虚空を滅することは出来ない。
分子が分母を、倒せない。
まして虚空の全母を倒せない。そもそも戦いではないものに、どんな抵抗も意味をなさない。
段々と、このことを認めて静かに変化を遂げ、全体一つで動き始める人が出て来る。
だが、それは既にその人にとって当たり前のことであるので、声高には言わないだろう。
周囲が変わったことを、耳をそばだてて確認してから「私も、動こ~っと」と予定する人の元には、変化の波が感じられる日が来るのかどうか、見当もつかない。
はっきりと分かるのは、この変化は多数決などで押し留められるものではないと言うこと位だ。
全体一つの全体とは、物理次元そのもののことであり、人間全員のことではない。
未練と手に手を取り続けたい人々については、ご自由に素敵な旅をと申し上げるのみ。
こちらは折角なので「不覚の未練がどのくらいしつこいか」を、世を見渡し感謝と共に観察させて頂くことにする。
空には、数を頼めない。
(2020/12/7)