《回り回って》
この所、じゃんじゃん降る雪に埋め立てられそうだった閉塞感も手伝って、混乱の勢いが更に増している不覚社会。
医療と一部の産業とどっちを崩壊させるかだ、みたいな穏やかでない雰囲気になっている。
勝つか負けるか、敵は何処か、そんな泥仕合のニュースを眺めていた横から、不思議そうな“声”が聴こえた。
声と言っても、言語化されていない何と言うか様々な色合いみたいな感じで伝わって来たので、言葉の形に落とし込むのがちょっと難しいが、大体要約するとこんな感じである。
“経済が回ることと、善悪は関係がない。
だが人間は経済回すか回さぬかに、善悪をそっと忍ばせ、挟み込んで来る。
善悪は関係ないことは、見りゃ分かるだろうが。
何故、対象を見ない?
そして全体を観ない?”
実に不思議そうな様子だった。
本当に、意味が分からないのだろうなと感じながら、頷いた。
不覚に意味を求めること自体、意味がない。
だが、人間として生きたことのないエネルギー体の中には「え?何で?」となるばかりの存在もあるのだろう。
ちなみに、声の主が何者か又は何物かは尋ねなかった。
入力と言うか出力と言うか分からないが情報の飛来がバカスカあり、そんな場合じゃないからだ。
それらを中立に観察し、交通量調査やヒヨコの雌雄判別の様に、淡々と必要な整理や精査を行うだけで結構な仕事量。
只今最も気を入れているのが、「適当に蛇口を開かないこと」である。
こんなんなるから。
上界隈も別に暇してる訳でもないだろうが、そんな訳でこちらも割と多用である。
不覚感覚に馴染みのないエネルギー体の「ウッソォ!」みたいな横槍に一々付き合えない。
しかし、「そう言えばまぁそうだな」と気づけた点もあった。
世に起こる様々な動きは弥栄で回ることもあるし、エゴで回ることもある。
エゴで回る時は、やたらカクカクしている。
決まった箇所に停止させようとしたり、一部に沢山集めようと力んだりと言う、ヘンテコな指示を含むからだ。
不覚は、善悪のどちらでもはかれないものを、何でかどっちかの器に収めようとすることが良くある。
四角い器と丸い器を両手に持って、流れる川を一方に全部収めようとヤーヤー頑張っている者が居たら、「何だってそんなことを?」と、呆れやしないだろうか。
両方にだって収まりゃしない。
流れにさす竿の長さを競い合い、ついでにそれで叩き合い、みたいな変わったイベントが激化している横を、川は構わず流れている。
流れることが、川の歓びである。
そして一時も止まっていない。
弥栄の流れに逆らわなければ、経済だって勝手に回る。
と言うか、ずっと回っている。
今までやって来た形でないと嫌なんだと、流れ方を限定し続ける所が干上がりの錯覚に陥っている。
回り方を自在に変化させて、惜しみなく出来ることをし続けていれば、回り回って惜しみなくもてなされることになる。
もてなしは人からもあるし、空間からもある。
自ら流れに乗り、流れ行き流れ来るものも自由に回らせ、近場の回転だけではなく、全体の循環を観察する時代が既に来ている。
全て無から生じ、過不足なく回り回っている。
これ程見事なことがあるだろうか。
そう感じることが出来るのも、観察する者ならではの歓びである。
足で踏んでも止まらぬ流れ。
(2021/1/14)