《品種改良?》
ひょんなことから、不覚社会で「改良」と呼ばれる行いに興味を持った宮司。
改良について調べてみると、「不備な点や悪い点を改めて、よくすること。改善」とある。
例文として「品種を改良する」と書かれていた。
では逆の「改悪」については、人間はどの様に解説しているのか。
これも調べると、「物事を改めて、かえって悪くすること」とあり、使用例に「独断専行で規約を改悪する」、そして対義語に「改善」と書かれていた。
改善、改悪、改良。
三種の改をグルグルと回転させながら、意識を向けてみた。
良し悪しでも、善し悪しでも、ポイントは人間の都合にある。
そしてそれはしばしば、施される側の自然な姿を無視した形で押し通される。
宮司が改良に興味を持ったのは、上から必要を示されて観たドキュメンタリー映画の中に、品種改良された鶏達が出て来たことが切っ掛けだった。
沢山食べて、成長が速く、効率よく鶏肉になる
その為の改良を経て生まれた鶏達は屋内で只々、与えられる餌を食べて過ごす。
成長と言うか肥大の勢いが急過ぎる余り、体を支えられなくなったり心臓に無理が来たりで、一部は肉になる前に亡くなったりしていた。
それら途中退場組を除いてもビジネスとして成り立つ程度の利益は出せる模様。
基準を満たす大きさに育った鶏達は作物を刈り取る様に一気に集められて、加工する場所へ運び出されて行った。
卵から孵って間もない雛を養鶏場に連れて来た場面では、成長に必要な刺激を与えるとかで、箱に入った彼らを放り出す様に飼育場にザっとばら撒く。
が、その作業中に何羽か踏み殺してしまう。
そこで出て来る反応は、足の下にヒヨコが入って来たから避けられなかったとか、仕方ないとか、慣れるとか、そんな感じ。
ちっちゃなヒヨコ達に「パパだよ~」みたいなことを言ったりもするが、踏み潰しからの死は「しゃーなし」に落ち着くみたいである。
一方で、業界を牛耳る巨大企業達に搾取される下請けさんが、自分達養鶏業者の“飼い殺し状態”を憤ったり嘆いたりするのには、「おかしなことだな」と言う風に同調する。
おいおいとツッコミつつ、「これが不覚名物、近視眼的堂々巡りだ」と頷いた。
その巨大企業側の人々も下請けさん同様に、避けられなかったとか、仕方ないとか、慣れるとか、そんな感じの反応で、飼い殺しするスタイルでの仕事をこなしているのじゃないだろうか。
罪とか罰とかじゃなしに、単純に、
同じノリが仲良く引っ付いてグルグル回っている
それだけである。
出られる様で出られない。
全体の観察をしない人々は、自分がしていることについては仕方なく、されていることについては仕方なくない、何故なんだとトンチキな疑問をこねくり回す。
「こっちは鶏じゃない、人間なんだぞ!」
となるなら、「食べる側の人間様の方が、食べられる側の鶏より偉いのだ」と言う偏見が当たり前の様にある。
それは「食い物にする有力な人間の方が、食い物にされる無力な人間より偉いのだ」と言う偏見と、どこが違うのだろうか。
数か月の“鶏生”の中で、あの鶏達にどんな喜びや楽しさがあったのか、苦しみや恐れがあったのか、それは分からない。
だが、鶏の形で画面に登場したいのち達は最初から最後まで、生きることに手を抜いている様子はなかった。
人の施す改良は、鶏としての自然な在り方を重視しないが、速くしたり膨らましたり改良でどんな歪みを起こしても、生きることに手を抜かさせたりは出来ないのだと感じ入った。
鶏達から存在としての輝きが失せないのは、鶏が何かを歪める側に回っていないからだ。
全体一つの天意から観ると、改善も改悪も改良もない。
全て、改変である。
これは悪しとか、全母たる虚空は叱ってくれない。
鶏も叱ってくれない。
改良も改悪も改善も実際何一つ無く、出来ていたことは
時にやんちゃでお騒がせな沢山の改変
であったと気づく時、ようやく真の大人になる進化の入り口に立つのだ。
進みなき改変の限界。
(2021/6/21)