《咲きて誇らぬ》
この所、不覚社会の予定調和は世界規模でガタピシ言っている。
ネットでニュースを眺めていると普段この時期に広告が舞い飛ぶ、桜の名所に絡めた旅行の大々的なキャンペーンもなし。
選抜された高校球児達が日頃の鍛錬を披露する祭典もなし。
各地を賑わすお花見に関するニュースも、ほぼ見かけない。
旅行もお花見も、どっかでやってはいるのかも知れない。
だが、「呑気に楽しむ様子を容易に出せない雰囲気」が不覚社会を覆っているので、「全力で春を謳歌しています!」な場面にそうそうお目にかかれない。
人々からは。
自然は全く普段と変わらない。
先日も、じき満開になろうと言う桜並木を、ゆっくり散歩しながら静かに眺めて楽しんで来た。
人間社会の取っ散らかっている状態が、桜の花色に反映されたりするものだろうかと、よくよく眺めてみたが、全くそんなことはなかった。
桜は見事に白く、ほのかに紅く、只、歓びをもって美しく咲いているだけ。
「そりゃそうだ」と、頷いた。
人が使う表現に、
「今はまだ芽が出なくても、いずれ花咲く時が来るから」
と言うものがある。これは励ましで、
「芽が出ない」イコール世に認められていない、つまりあんまり良くない状態。
そして「花咲く」イコール、世に知られることとなり活躍している、良い状態。
そうして話を進めている。
実際眺めてみると、芽吹く前の枝も、小さな芽も、蕾も、花も、全て桜にとっては歓びでしかない。
こんなとこから出て来たり。
桜にとってと書いたが、物理次元にとっても、全母にとっても、宮司にとっても、同様である。
歓びでしかない。
桜に「さくらさく」は合格、「さくらちる」は不合格なのだと言ったら、驚くだろうか。
「だって咲かないと散れないじゃない。
じゃあ、合格も時が経てば不合格になるのかな」
とか逆に聞かれやしないか。
そもそも合格、と言うものを理解しないかも知れない。
桜の繁栄は、評価に依ったり他の衰退に支えられて成される訳ではないからである。
「咲き誇る」と言うのも、人による見立てを含めた独特な表現だと気づいた。
人は栄華や成果を誇る。
だが、しているのは創造ではなくアレンジのみ。
ソメイヨシノを人は品種改良によって「生み出した気」になっているが、あの植物を全くの無からポンと出した訳ではない。
変わることを受け容れて、その上で活き活きと咲く「桜と言ういのち」があったればこそ。
何一つ無から生み出せていないことに気づいて謙虚になるのでなしに、有り物をアレンジ三昧の結果ひっちゃかめっちゃかなのだから人類って利口なんだか馬鹿なんだか分かりゃしないのだ。
桜は桜を観察しないが、人は桜を観察出来る。
求めに応じて惜しみなく変化する。
特定の「良いもの」を待ったりしない。
何があろうと全力で、美しい。
2020の人類は桜から、そうした生き様を学ぶことが出来る。
咲きて誇らぬ、晴れやかさ。
(2020/3/23)