何でかピッタリしたものが来なかったので、4月のふろくはお休みし、別の月に2回お届け致します。
では記事へ。
《和を成す》
「昭和…平成…令和…」
並べてみると、和と和で成を挟んでいる。
「和・成・和。じゃ、次何成?永成?」
と一瞬首を傾げたが、未だ来ないものに意識を向けてても仕方ないと、興味がシューッと萎んだ。
目が覚めて気がついた変化の一つが「すぐ今に戻る」点である。
思い描くと言う作業にハマると、過去から引用し未来から候補を選びして、
「過去・未来・過去・未来・過去・過去・未来・未来・過去…」
と、順不同でワープさせる「意識の今以外ツアー」が開催されている状態となる。
不覚の意識には強烈な選り好みがあるので、「どうせこんなんだろうな」とか「こうなったらいいな」「絶対こうなれ!」「こうだけは勘弁!」と、あっちこっち極端に舵をきり、大体どこにも到着せずに、遭難する。
そして、旅の夢を見ていた、とハッとして思い描きをやめる。
で、又ふとした拍子に“旅”に出る。
思い描きの癖にうんざりしている者は、「大体決まっている行先」の旅で「結局遭難する」ことに、飽きているのだ。
完全に飽ききった者の中に、うんと近場で最も充実する、内なる中心への旅を始める人々が居る。
思い描きの旅の様な強い興奮はない。
何かしらの評価や特権が手に入る訳でもない。
これまで外側の世界で味わうことのなかった感覚を開いていく旅なので、分かりにくい点も多い。
それでも、これまでの派手な堂々巡りでは達することのなかった理解と実感が、その旅にはある。
過去も未来も超えた、永遠なるいのちの旅である。
内側が澄んで意識が明晰になることに、終わりはない。
そうなればなっただけ、繁栄が外側に現れる。
それが進化変容の道であり、内外が和した状態を成して初めて可能となる。
昭和の昭は、日を召すと書く。
“日”と表される愛の光を、意識が物理次元に呼ぶと言う“召す”を行う。
それによって繁栄を求めたのだろうが、愛を呼ぶことはしても愛を意識的に放出することはなかった時代となった。
何の不思議もない。
光の放出を示す部分が足されて、入ると出るの循環が完成した状態を
照
の字に観る時、昭和は
和そうとしつつ、天照らさなかった時代
であると自然に分かる。
それでも、部分の情を沢山深めて経験を積み重ね、ありとあらゆる不覚の体験を揃えた所に昭和の有難さがある。
走りに走った。
昭和で揃えたものを棚卸しして「このまんまじゃもう立ち行かないっス!」の答えが出たのが平成。
こちらにも感謝したい。
意識が零に帰還し、
天意からの愛で、
和を成すこと。
その必要を示してくれる令和にも、今の今、心底より感謝している。
0の時代へ。
(2019/4/29)