《吸・吸・吸?》
汲々として苦しむ人々に共通するのが愛を放つ力の無さ、貢献の無さである。
「自分の為だけじゃなく、家族にも親戚にも友人にも尽くしている」
そう思ったとしても、
自分に近い人々の得になる程度に限定するならそれは結局、
自らへの尽くしを
遠まわしにすることで、
大きく広げただけなのだ。
身内をまるきりの他とは出来ない。
身内とは、書けばまさに「身」の「内」であるし、親しい交流が継続する間柄なら、様々なお返しが期待出来るし、良好な関係の維持は有事を支える保証になる。
貢献なのか、投資なのか。
どちらなのかと問えば、戻る返事は「両方です」だろう。
正直に内に問う必要があるのは、
貢献と、投資と、どちらを重んじているのか。
飾らずにはっきりさせると、自他を問わない貢献がどれだけ出来ていたのか、そこで初めて明らかとなる。
「ろくにしていなかった」と分かった方は、もう苦しむことに飽きたと言うなら、どんな小さな貢献でもとにかく始めてみられることだ。
何の見返りも求めず、見ず知らずの者の役に立つことは、日常的に可能。
募金や道案内等、その気があれば、自然と機は巡って来る。
そうしたことに意識が向かわず、見返りの有りそうな場所にしか力を注いで来なかったしこれからもしないと言う人々は、呼吸の吸ばかりをしている状態が続く。
吸・吸・吸を繰り返せば、当たり前に限界が来る。
腹が膨れ、思い通りに吸い込めなくなる苦しい状態になっても、何の不思議もない。
この状態は餓鬼の姿に良く似ている。
時間に飢える、金銭に飢える、情に飢える、成功に飢える。
欲しい欲しい、足りない足りない、苦しい苦しいを繰り返す内なる餓鬼から自由になるには、餓鬼が大嫌いな放出、呼吸で言う「呼」を行うことだ。
息を出すなんて、恐ろしくて出来ないと思うかも知れない。
「力を出したら、減る」
今だって酸欠状態で不安なのに、減らすなんて恐怖でしかない。
だが、この恐怖を超えて出さないと、循環は起きない。
出すのは、愛。
出る形は、物や行い、言葉、どれでも起こり、予測はつかない。
愛は算段出来ない。
愛かどうかは、そこに歓びが起きるかで分かる。
「エイヤッ」と行ってみた時、思いがけない爽やかさが訪れたら、それが今まで知らなかった愛の新風である。
吹き抜ける、解放の風。
(2019/10/7)