《同じ歌》
記事にも書かせて頂いた様に、不覚社会が求めるものを知る上で必要なことの一つとして、音楽作品も良く聴いていた。
ジャンルも様々、その時に旬だとされるものを好みに関係なく何でも聴く。
と言うか、好みがもう大分前から存在しない。
相当量を聴いたし、中には真実の溢れる音との出会いもあったのでこの体験にもとても感謝している。
そして、憐憫ブームについて書いた辺りでその音の旅も一旦止めにした。
今度は無を聴くことに注力せよとのメッセージを受け取ったからである。
すると、これまで以上に冴えた気づきが起きる様になった。
音楽を聴かなくなったことで起こる変化については、以前にも体験したことがあったので
「そう言えばそうだったわ~!
いやしかし、ここまで違うかね!」
と言う驚きがあった。
音楽を聴かなくなっても世界から音が消えることはない。
環境音の間から、無も合わせて聴く。
耳やハートに限ることなく全身で聴いている。
無が有を生んでいるので、無に編み込まれた有の連続としてそれらを受け取っているのだが、これは人が意図や意志の元に作った音とは随分違っている。
作った音の“呪文性”とも言える側面にも、そこからの解放感によって改めて気づくことが出来た。
中立に聴き続けていても、同じ意を持つ同じ文言同じ旋律を繰り返し受け入れると、曲の持つ世界が意識に染みて行く。
作った音は余程自覚的に、
聴くことが求められる。
曲ではなくとも普段の生活の中で繰り返される習慣、決まった思考パターン、会えばいつものノリの集団なども、意識に「同じ歌」を響かせる。
世界は本来毎瞬新しく、
固定されたものはない。
そのことを知る為に、一回慣れたノリで意識をボンヤカさせる試みとも言える。
しかし、止めてみないとボンヤカしっぱなしである。
集団のノリを止めることは最も難しいし、する必要がない。
集まるメンバーにもそれぞれの自由意志があるからだ。
そんな自由意志の交差点で、一人立ち自らの由によって自由であることは、やはり中々にハード。
様々な慣れによって発生した意識の霧を晴らすには、生活の中に実はもう必要のない習慣が残っているか、決まった思考パターンがあるかどうかを観察し、それらを一旦止めてみることの方が近道である。
音楽を聴く習慣を止めて数日、その前まで聴いていた曲の幾つかが意識の中で勝手に鳴り出す現象があった。
セイレーンのことがふと、浮かんだ。
人の意識中に、音に乗じて現れる訪問者が居る。
不覚的好みが決まっていると大抵その好みに合う訪問者なので意識は興奮し、彼らの音の渦に誘われて行く。
そしてそこに紐づいた好みを材料に、更に「自分好み」と言うお城を強化する。
宮司を名乗る“これ”には好みと呼べるものが特になくなっているので、その鳴り響きを只観察した。
少しの呼びかけの後、来訪はなくなり、とても静かになった。
又、必要があれば沢山の音に触れる機会も出て来るだろうが、今の今はこの静けさを存分に楽しんでいる。
慣れなら一旦、止めてみる。
(2020/7/13)