《六根清浄》
戦略的に動くことが習慣になっていると、「我が為に」と行いが限定され、エネルギーが澱んで目詰まりを起こす。
世に蔓延る目詰まりを流すにあたって、宮司を名乗る“これ”にも何か協力が出来るだろうかと意識を向けていたある日のこと。
たまたま居た場所の近くにある寺に、鬼子母神が祀られているのを思い出し、入ってみた。
個母の極みみたいな状態から、全母性の大切さを分かるに至った鬼子母神と向き合ってみたら、何か戦略家達に伝えることがやって来るかも知れない。
お堂で手を合わせた後、神紋の柘榴が目に入った。
割れた中から、命の輝きの様な粒粒がびっしり見えるのを眺めていて、
「あ、そうだった。確かに!」
と、気がついた。
ぱっくり開いた空間から現れた命の粒。
これには虚空に光が無尽蔵に内包されている姿、それが物理次元へ無限大に生まれて来る姿が、同時に表されている。
柘榴を女性器に例えてSexy解釈をする向きもあるが、ムフフ程度に留まらずに奥へ進むと深遠なる叡智を受け取ることが出来る。
「こうやってずーっと柘榴紋を観ているだけで、
万物生成の奥深さや永遠無限を感じるけど、
細かすぎてエゴ保持中だと伝わらないやり方か」
と、唸った。
ここの鬼子母神のすぐ隣には、水をかけて祈りを捧げる浄行菩薩がおられる。
像の脇に書かれた六根清浄の文字を見ていて、先だって記事にも書いた混乱状態のご報告を思い出した。
そして、その方を始めとする不覚社会全体に溢れる根深い混乱の清浄を祈ることにした。
横に立っているポストみたいな箱に賽銭を入れて、撫で地蔵の様に菩薩像を触りながら説明を読んだら、まず水をかけてから気になる部分を触るようにと書いてある。
「いっけね、先さわっちゃった」
家電でも何でも、動かしながら説明書を読んだりして思いがけない動作にビックリしたりするが、菩薩にもそんな対応である。
菩薩は照明機能付き加湿器みたいに虹色に光ったりグルグル回転したりしないので、そんなには驚かなかったが一応謝っておいた。
気持ちも新たに、柄杓で水をかける。
洗われた菩薩は、何だかツルツルしている。
不覚社会の混乱に限定せずそこを通して、全体の清浄を祈ることにした。
「全体の清浄を祈る時ってどこ撫でよう」と、さっぱり分からないまま手の置き所を探していて、菩薩の頭にポコンと出っ張った部分があるのに気がついた。
オツムに蓋がしてあるみたいである。
意識に蓋がしてあれば鈍くもなるし苦しみもあるだろうと、その凸を撫でながら清浄を祈った。
そろそろ帰ろうとして、不意に体内にやわらかな温かさと共に光が広がるのを感じて、ビックリした。
手順間違いに気がついた時より遥かに驚いた。
全体の清浄を祈る時、宮司と言う“これ”も活性化する。
そりゃ自他ないから“これ”だって全体の一部な訳で、当たり前と言えば当たり前な話なのである。
しかし、そんなお返しは一切求めていなかったので驚き、そのことに何だか笑えて来た。
放った玉が、地球を一周して背中に当たって驚いたみたいな状態が、可笑しかったのである。
愉快だし、活気づくし、祈るって奉仕ではない。
まして犠牲ではないのだと、改めて納得する。
全体に愛を送ると活性化が進み、「誰かから貰おう・誰かへとあげよう」のみでやり取りすると行き詰まるばかりとなる。
行き詰る人々に、どこまで祈りが届いたかは分からない。
「全体に隔てなく」と「部分一筋」では周波数が違い過ぎるので、送ったものもすり抜けてしまうかも知れないからだ。
だが、意識の中にほんの僅かでも「全体への愛」が息づく方へは、必ず届くと理解している。
六根満たす、清浄の光。
(2019/10/3)