《入口マニア》
言と事は訓読みした時の「こと」の音こそ同じだが、一言申すことと、一仕事することは同じではない。
それでも、抱負とか反省とか決意とかの形をとって何かしらを言うことで、何故か事まで終えた風な、実体なき満足感に陥る不覚の人は結構多い。
何か言うことで興奮と満足感を得て「これでいいや」となった分割意識が、そこから先の行動を必要としなくなることがある。
何か言うことをしなくとも例えば、
強運を祝福される様なベタ褒めのお神籤を引いた時、
信頼に足る凄い人に出会えたと思えた時、
叶わないと思っていた夢に向き合ってみるぞと奮起した時、
これまでの自分とは違う自分になりたいと強く感じた時、
そんな諸々の“いい兆し”にも、それだけで快感が生じる。
この快感は興奮を招き、やがて“満足感を伴う夢”を意識に見させる。
パッと光明が差して新しい道が開ける様な希望に満ちた感覚は、それだけである程度の満足感をもたらすのだ。
この満足感には、実行に求められる勇気や根気や柔軟性や成長等は必要がない。
「面倒くさく思えることや退屈に感じることや、確実に上手く行く保証のない不安なことなんか嫌いだ」
そんな偏りを抱えた意識は、最初の「よーし!」で得られる満足感を繰り返すことだけに終始する。
意識が勝手にイメージする希望に満ちた場所に、首だけ突っ込んで行きつ戻りつするのが好きな、入口マニアである。
こうしたことは以前にも書かせて頂いたが、改めてお伝えする。
満足感と満足は違う。
家を描くことと、家を建てることが違う様に。
家の絵を描いて綺麗に仕上がったら、それだけで人は喜びを感じたりする。
意識内の思い描きも、得意な人であるとそれはもうありありと細かく完成まで仕上げる。
絵に描かれた家には住めないし、誰も招待出来ない。
大規模な展覧会が開ける程の、夢の家シリーズを描いて持っていたとしてもである。
実際に作ってみたら存外不格好な家になるかも知れないし、完成しないかも知れない。
そんな不愉快なことは御免だから、家の絵だけ沢山並べてそこに住んだとしたらの夢を見る。
住みたい家を建てず完成した様子を絵描くのみの夢想家が居たら、世間の人は笑うかも知れない。
だが、それぞれの「やれたらいいなと思っていること」について同じ姿勢で居る人は多い。
世の中には有言実行の人も居るし、家を描くことも建てることも両方楽しめる人も居る。
彼らは言霊の力やメモの力の重要性について語ったり、具現化するにはまずビジョンが大事であるので夢想家であれと語ったりもするだろう。
だが、言い放ち、メモを取り、ビジョンを練りに練った段階で、止まる人々も居るのだ。
そしてそこ止まりの人々は「+実行」を成せる人々に自らを重ね合わせて、仮初めの満足感を楽しむ。
リスクなき達成と違い、リスクなき達成感は有り得る。
それに必要なのは、実行には及び腰でも憑依だけ妙に上手い小狡さと、達成した感だけで良しと出来る鈍感さであり、なけなしの勇気も地道な根気も要らない。
思い描きで多少の満足感を伴う夢を見て暮らすだけの人々が身近に居たとしても、責める必要はないし嘆く必要もないが、彼らの好むノリに付き合う必要もない。
良い悪いではないので、付き合っても悪い訳ではない。
だがその分、本道からは遠退くこと、入口の夢想に付き合いまくっても相手が満足して中途半端が止むわけではないことを、申し上げておく。
甘いものをたんまり食べても、急に辛党に宗旨替えする人は居ないし、必要な栄養を適度に適量摂ると言った調和に達することもない。
甘味暴食の行き着く先はせいぜいが、虫歯が進む位。
もっと分かり易く言えば、薬物に依存する人が「げっぷが出る程クスリやったからもういいや」とならないのと同じである。
「本道はもういいや」となって遠退きたい場合には、満足感遊びは逆に効果的な脱線方法。
只、脱線した先に、本道に戻す送迎車が来たりはしないことも一応申し上げておく。
感のみで、満たせるものなし。
(2021/5/20)