《何の背景?》
当宮記事の内容を受けて、「こ…こんな感じ?」と、首を傾げたりしつつそれぞれに、物理次元へ愛を表す行動を実践してみて下さっている方々。
この場を借りて、深く御礼申し上げる。
そして、
「何かしたい気はあるんですが」
「愛からって何をすればいいのか」
「来ないんです、メッセージが」
こんな状態でグルグルしている方々に向けては、宮司を名乗る“これ”に先日起きた気づきをご報告申し上げる。
お気を悪くされる方がいるかも分からない気づきなのだが、先に3つ程あげた「どうにもねぇ…」な感想を持たれた方には共通していることがある。
損得勘定抜きに
何かをしたことがない。
たとえ、家族に微笑みかける動きでも「愛し愛されていると言うかたちを作って、幸せな人として在りたい」の算段があるし、
信仰を通じて世間に奉仕する動きでも、「善なる人として認知されたいし、後、この先どっかでギブミー御利益」の算段がある。
損得のソロバンはじきに慣れ親しんで来た方が愛を示そうとすると、想像しただけでくたびれて腰が引けてしまうかも知れない。
それでなくとも仮想現実に沸く2019では、何でも想像しただけでやった気になりがちである。
何一つ貢献していないのに、想像で疲労&お疲れ会開催になってしまう。
空想で空費する前に、これなら気軽に出来そうと感じる損得抜きの活動を、何の気なしに「実行」してみられること。
こんな時だけ都合よく「だって物理次元も結局全ては幻想なんでしょ」を切り出しても、それは既に馬鹿馬鹿し過ぎて使えない手札だ。
多くの人は行動を起こすのにあたり、全体一つの空間がエゴによって引き裂かれる興奮を、糧にして来た。
損得抜きの活動は、その糧なしで動くことになるのでエゴの「嫌だ」「辛い」「面倒くさい」が大合唱になる。
只、動いた後に発生する得も言われぬ充足や、巡り巡って訪れる、何かしようとした時に吹く不思議な“追い風”のことは、エゴは何も教えてくれない。
意地悪で教えてくれないのではなく、それはエゴの外で起きることなので、単純に知らないのだ。
エゴは何でも知っている訳ではないし、どこにでも連れて行ってくれる訳でもない。
先日、街歩きをしていてふと目についた本の表紙に書かれていた、『俺か、俺以外か。』に唸った。
本を書いた人物にとって「自分」が立体&主役、「その他」は背景&脇役と言う表現。
実状がどうであるかは置いといて、
(と言うのも、大概の尊大は根深いコンプレックスの支えで構築されているからである。地下深くまで杭を打った方が、より高層の建築が可能となる。)
「そんな調子でやって行きたい」と言う意図は伝わる。
目を覚まして、物理次元と言う「全体一つの光る映画」の中で動いていると、自分と認識する“これ”の背後にも、かたちを変えた自らや、何もない空間とされる自らがあり、どこまで行っても背景はない。
万物それぞれに虚空と言う“主”の命を受けた主役であり、添え物はないと分かる。
だから出自であれ立場であれその他の諸事情であれ、「何かを背景にして行動する」と言うこともなくなる。
目が覚めると、背景と言う概念が消え、同時に様々なものが消える。
損得
崇拝
運命の人
その他大勢
劣等感
優越感
熱狂
厭世
射幸
etc
本当に多くのものが消える。
それらを動かしていたエネルギーが抜け、只のプログラムに戻って回収される。
消えてしまったことに目が覚めた途端に気がつくわけではなく、静かで気楽な空間を自由に歩き回っているうちに、他の端末に残るその「あれやこれや」を見聞きして、
「あ、それはもう“これ”にはないや!」
と、驚くことで日々気がつき分かって行く。
あれやこれやが残る不覚状態は、旧式概念を刻み込んだ遺跡の様なもので、あれやこれやに一喜一憂して気をとられ続けると、生きているのに瞬間瞬間のフレッシュさを味わう感覚が鈍くなる。
不覚の人は、半生タイプの遺跡である。
丸ごと生きて、活かしてみよう。
(2019/6/20)