《何にでも》
先日閃いたキャラ弁チャレンジが、思いもかけない所で袋小路に入った。
昨年の母神祭でもちょっと登場した得体の知れなさが面白いあいつを作ろうとして、はたと立ち止まった。
紫なの?ピンクなの?
調べてみると、キャラの数だけキャラ弁ありと言うか、この訳の分からないキャラクターを弁当フィールド内で表現する先人達の作品を発見。
ところが、大体がご飯、それかやわやわしたラインで切り取ったハムで具現化している。
「あのスライム感が出ないじゃないか!」
ご飯は渋くゆかりか何かを混ぜて作ってあるし、ハムは大概、ピンクである。
やっぱりピンクと紫どちらなのか分からない。
こちらは初見で、ほぼゼリーの印象だった。
最も弁当に向かない素材。
それも含めて実態が掴めない。
どうせなら存在に最も面白味を感じたものをと選んだが、面白過ぎてコースアウトギリギリ。
そうこうしている間に、またとんでもない追加情報が入って来る。
「青?」
何故だろうか、追いかければ追いかける程、食品から離れて行く。
余りにも混沌として来たので、この案件はお花見シーズンまでゆっくり練り上げることにした。
ここでご覧頂くかどうかは決めていないが、作るのが楽しみである。
このモデル、目当てにした対象の真似をしてそのものそっくりに変化する、進化しないポケモンらしい。
「そのものにはなれないが、真似であれば何の真似でも出来る」
「他の進化は促しても、これ自体は進化しない」
この特徴はエゴそのものではないだろうか。
エゴとは元々単なるプログラム、そこに力を注ぎ込み肥大させるのは人の不安や望みである。
つまり、人が燃料を提供せずにほっとけば、静かになるもの。
人は自由を好み、憧れ、求める。
本来人型生命体は、とことん自由な存在であるから。
そこにエゴが加わることで、人はいつしか不自由を嫌いながらも縛られることにどこか安心する様になった。
自由には責任がセットで付いてくる。
本来は由であり、責めとはおかしな表現だが、不覚社会では避けられ過ぎた由はその様な厳しい感じで伝わっている。
既に幾度言ったか知らないが、「自らに由がある」で自由。
由のあるを認め、他に責を追わせない状態にしか自由は訪れない。
好き勝手出来て尻拭いは他でよろしく、であればそれは自由ではなく自分勝手なのだ。
何の真似っこも出来る存在から自由とは何かを学び、自由と自分勝手の違いを今一度確認されたし。
それが大人への一歩となる。
何にでもなら、何だっていいはず。
(2020/2/13)